用語に関するノート 2

共同主観/inter-subjective structure

人間の行動には必ず何らかの意識や観念などの精神活動がともなう。
したがって、人間社会の仕込みや構造、社会関係は、人びとの意識のあり方、主観の持ち方によって媒介され、方向づけられている。
経済活動や文化、政治システムなどは、人びとの意思とか意識的な行動によって、つまりは主観を媒介にして形成される。
そして、社会の仕組みは、おしなべて人びとの意識や主観(利害意識や思惑など)によって動機づけられ、方向づけられて、はじめて運動し形成されていくものだ。

とはいえ、経済構造の総体としては、多数の人びとのあいだの利害対立や権力闘争、思惑の交錯などをつうじて成り立っているので、エリートや支配階級も含めて、個々の人びとや個々の集団の意識や願望などの主観から独立しているというべきだろう。
政治的に支配する階級やエリートの利害や意思の多くが、ほかの階級や集団に比べて格段に大きな影響力をもったり、大きな度合いで達成されたりするのは、彼らの利害意識や価値観が社会の多数派の人びとの意識や観念に浸透し共有されるからだ。

個々の人びとや集団の意識や主観から独立しているとはいっても、全体として一定の方向を備えた集合的な意識・主観は、個々の人びとを支配したり、脅かしたり、狩立てたりする物質的な力、抵抗しがたい強制力としてはたらくのだ。
ということは、社会の多数派が「そうあるべきだ」という価値観や規範意識をもって互いに社会関係をとり結び、行動すれば、それは全体として人びとを拘束する秩序や構造ができあがるはずだ。

ということは、ある社会で、多数の人びとの意識や観念に一定のパターン・方向性が成り立っていれば、そのヴェクトルは社会全体を方向づけ制約する「力」「物質的な構造」になるだろうということになる。

たとえば、歴史的に実在したナチズムやファシズムの社会構造を見れば、そうであることが理解できるだろう。
とはいえ、ドイツやイタリアの市民たちがナチスやファシストの思想や価値観を自ら積極的に共有・賛同したというわけではない。多数の人びとは、迫害や圧迫を受けないように行動していた、つまり規範として受け入れた振り=外観をとっていたにすぎないだろう。

しかし、そういう意識は行動に表れる限り、客観的には、人びとの行動を制約ないし束縛する「共同主観」となりうる。
たとえば、ユダヤ人や東欧諸民族の迫害・虐待を見て見ぬふりをしたり、当局の「人狩り」に受動的に協力したり、という場合だ。あるいは、当局主催の行事・祭典に参加したりと。

つまり、多数の人びとが共有する主観は、社会全体を方向づけ制約する構造をもたらすのだ。
言い換えれば、人びとのあいだには、そういう構造というか関係性がはたらくことになる。
そのような社会全体または多数派の価値観や規範意識がもたらす観念のパターンを、ここでは「共同主観」と呼ぶ。