1220年前後の地中海東部の状況

  この絵地図は、13世紀前半の地中海ヨーロッパの状況を示す。北アフリカやアナトリア、レヴァント地方に進出したイスラム勢力がビザンツ帝国を脅かしていた。ビザンツ皇帝は何度も西ヨーロッパの諸侯に来援を要請した。
  北イタリア諸都市の商人たちは、互いに競争しながら、地中海東部から黒海におよぶ地帯に進出し、貿易拠点を築き始めた。彼らの通航・貿易経路は、十字軍の侵攻・侵略経路となった。十字軍運動は、ヨーロッパ人による地中海貿易圏の形成と拡張に随伴するできごとだった。
  13世紀はじめから半ばにかけて、シリア海岸地方にはいくつもの十字軍諸侯領(公・侯国や王国)が出現した。十字軍運動を支援したヴェネツィアなどの商人たちは、これらの公・侯国や王国で通商特権や交易拠点を獲得した。
  ところが、エジプトやレヴァント、メソポタミア地方にはイスラム太守の権力が拡張していた。イタリア商人たちは、キリスト教勢力(十字軍)ともイスラム勢力とも商取引をおこない、高価な特産物をイタリアや西ヨーロッパに持ち込んで巨額の利潤を得ていた。
  さて、この時代の王国や公国・侯国などは、排他的な領土支配のレジームを備えていなかったから、勢力境域の境界は縁辺辺境に取り巻かれていて、曖昧だった。境界近辺には対立勢力の飛び地や属領などが複雑に入り組んでいた。こうした辺境の諸都市や集落、部族などは、自己保存のために状況に応じて柔軟に――つまり日和見的に――臣従(納税や貢納)の向け先を変えた。
  それゆえ、勢力の版図はわずかな期間で大きく変化することになった。この絵図は、あくまで一応の目安(大雑把な推定)にすぎない。

1204年、第4回十字軍はコンスタンティノポリスを攻略して、ビザンツ帝国帝都を陥落させた。そして、ギリシアにはがラテン帝国、アナトリアにはニケーア帝国が出現する。だが、ラテン帝国はテサロニカ王領、アテネ公領に分解した状態で成立し、やがてさらにアケーア領も分立した。1224年にはエピロス領のギリシア人領主がテサロニカを簒奪したが、この王朝も1230年にブルガリア勢力によって滅ぼされた。6年後にはニケーア帝国がコンスタンティノポリスを支配するようになり、テサロニカ勢力を拡大した。だが、ニケーア皇帝位は1259年にミハイルに奪われ、その2年後にビザンツ帝国として復興された。