16世紀後半〜末のネーデルラント

  この絵地図は、16世紀半ばのネーデルラントのエスパーニャ帝国からの分離独立闘争時の状況を略示する。
  ネーデルラント(低地)地方は、15世紀には南西部のアルトワ州を除いてほとんどが神聖ローマ帝国(ドイツ王国)に属していた。そこは、かつてブルゴーニュ公の支配地で、ブルゴーニュ公家が断絶すると、そのほとんどをオーストリア大公家が継承した。とはいえ、この地方は実際には無数の小さな領邦や所領(飛び地など)に分断されていた。
  それらの領邦や所領は、これまた多数の領主貴族や司教に臣従し、領主たちはそれぞれ別個ドイツ地方やフランス王国の上級君侯・領主に臣従していたので、地政学的にはモザイク模様をなしていた。
  ハプスブルク家のカール(5世)は、エスパーニャ王位とともにドイツ王位=神聖ローマ皇帝位、さらにブルゴーニュ公位を相続したことから、公家の支配地ネーデルラント諸領邦にも君臨することになった。カールの退位後、フェリーペ2世がそれらの君侯位を継承することになった。そして、ハプスブルク家が関与していたすべての紛争と戦線をも相続した。
  ヨーロッパ全域にわたるもめごとと戦乱のために膨大な出費をまかなうために、フェリーペは商工業が最も繁栄していたネーデルラントでの課税を増徴しようとして、この地域での在地勢力の抵抗を受けることになった。これに対抗するために統治体制をどんどん強圧的にせざるをえなかった。やがて散発的な抵抗や蜂起は、ハプスブルク家の支配地支配からの分離独立闘争へと発展した。
  この地図は、ネーデルラント主要諸都市の配置と、1648年のヴェストファーレン条約で確定した国境線を示したもの。