イベリア・西フランクにおけるイスラム勢力の征服活動 622―750年頃

  この絵地図は、7世紀前半から8世紀半ばまでのイスラム勢力の最大支配圏域と征服活動の主要な進撃経路を示したもの。
  この時代の西ヨーロッパおよび地中海・中東・北アフリカの地政学を大雑把に説明すると、イスラムの諸カリフ王朝からなる帝国は、東はペルシアとアフガンからアラビア半島全域、アナトリアを除く中東地域、北アフリカではエジプトからモロッコ・マグレブ地域までを版図にしていた。
  北アフリカ支配地の西半分は、帝国属州イーフリキーアと呼ばれていた。そこからイスラム勢力はジェベルアルタリク(ジブラルタル)海峡を超えてイベリア半島に進撃し、またたくまにほぼその全域を征服した。
  彼らは艦隊を編成して地中海にも支配圏域を広げた。アソーレス諸島(マジョルカ、ミノルカ)を征服して、サルデーニャ島とシチリア島にも攻め込んで、征服をおこなった。その結果、イタリア半島から西側の地中海では、ナルボネンシスからアソーレス諸島、サルデーニャ、シチリアを結ぶ線の南側がイスラムが支配する航海貿易圏となっていた。
  さらにイスラム勢力は、ピレネー山脈を越えて地中海岸のナルボネンシス(ナルボンヌ)を攻略し、さらにガロンヌ河沿いに北進し、ロワール河流域にまで侵攻。732年、トゥール・ポワティエで西フランクの騎士兵団に敗れて、膨張圧力はようやく収まった。
  支配圏域はあくまで推定にもとづく概略イメイジなので、これよりも突出した場所もあれば、へこんだ場所もある。そして、辺境縁辺地帯は、勢力は斑模様で、飛び地や割り込み地も無数にあったはずだ。当時の征服や支配とは、戦闘によって象徴的な地点を制圧したり、軍事力の誇示したりすることによって、その地方の有力者を臣従服属させることで完了するものとされていたのだ。