補足的資料 1

ノルマン征服王朝の宮廷装置

イングランドを征服して王位に就いたノルマンディ公は、統治のための宮廷組織として王会 curia regis を組織開催した。王会は、のちには王室顧問会議 Royal Council あるいは王の顧問会議 King's Council / King's Court とも呼ばれた。
アングロサクスン王朝では、王の中央宮廷組織はウィテナージュモート Witenagemot と呼ばれていて、ノルマン王権の王会は部分的にこれに倣ったともいわれている。また、大陸フランス北部では、ノルマンディ公はパリの王(フランス王カペー家)を凌ぐ君侯として振る舞っていて、その宮廷装置として公の顧問会議 curia ducis が組織開催されていた。こちらの方の組織編成や運営原則もイングランド王会に取り入れられたと思われる。あるいは両者は部分的に――参集者や議題の双方で――重なっていたのかもしれない。
なにしろノルマンディ公はイングランドでも征服活動などの巡行を繰り返していて、必要とあればいたるところで王会が召集開催されたうえに、大陸フランス領地への遠征や巡行も毎年おこなっていて、そこでも――フランス領地だけでなくイングランド領地の事柄も扱われたこともあるだろう――顧問会議は召集開催されたからだ。

ところで、王会(顧問会議)が王国全体や戦争に関する事項、バロン身分全体にかかわる事項を扱う場合には、多数のバロンや上級聖職者が参集する大会議(拡大王会) Magnum Curia が開かれた。これはやがて、1215年のマグナカルタ協約ののちには大会議 Parliament (貴族院と聖職者会議)になっていく。

中世ヨーロッパでは王の統治活動は公式の文書記録に残ることが少なく、また多くが慣習法・慣行に沿っておこなわれていたために、詳細や名称の異なる組織や会議との関係もよくわからない。年代記作者も、ときによって、人によって、異なる表記をしている。したがって、王の統治機構を模式図に表現することはできない。
また、のちになって王権組織の改革や変革をおこなったときに、その正統性を主張するために、より古い時代の組織や会議の名称を引き合いに出して、その継承組織・会議だと表明することもあるので、さらに問題が複雑になってしまう。

王の顧問会議が大評議会⇒議会になっていったとすると、イングランドにおける近代ブルジョワ民主主義的な「議会主権」は、王直属の宮廷機関がさまざまな国家装置を統括するという伝統をそのまま引き継いだものであり、ヨーロッパ大陸――ことにフランス――の王の身分制諮問機関が国家主権を担うという思想とは質的に異なることがわかる。