知のネットワークをめざして

  古代から中世にかけての王国や帝国は、それらの版図に包含される諸地方の領土的な結合をまったく意味しなかった。王国や帝国は、最有力の王または皇帝を盟主とする各地方の支配者・指導者(部族長や領主)たちの人格的パーソナルな同盟関係でしかなかった。
  各部族長や各豪族はそれぞれ別個に王や皇帝と臣従の誓約を交わすことで、ひとりの王や皇帝を君主として多数の部族長や豪族たちが臣従する――つまり家臣団となる――という形態で人格的な同盟関係が形成される、という論理になる。この人格的な同盟関係が帝国や王国の実体をなしていたのだ。したがって、漢字という文字コードで統治情報を管理操作することができた古代中国を除けば、帝国や王国はその版図内の諸地方を統合する制度的な実態が欠落したものだった。
  だから、皇帝や大王の死去や地方長の反乱などによって、帝国や王国は――その権威の観念体系が失われれば――いとも簡単に短時日のうちに崩壊していくことになる。
  5世紀末から9世紀にかけて膨張しフランク王国について見ると、たしかにシャルルマーニュの大遠征は、フランク王の圧倒的な軍事的優位にもとづいて各地の部族長や侯国の王たちにフランク王への臣従誓約を取り結ばせ、法観念上または政治イデオロギー上、イベリアから東ヨーロッパにおよぶ巨大な王国=帝国なるものを形成した。
  王から見て充分に信頼できる指導者がその地方に見いだせない場合には、王は自分の家系(王族)のあるいは腹心の家臣のなかから代官を伯として派遣した。すると、その伯が地方長となった。それゆえ、地方長の統治管区は伯領と呼ばれることになった。有力な部族長のなかには王から公ないし侯に授爵される者があった。そういう地方では、王が派遣した伯が公や侯の地方統治の補佐を担う場合もあった。それによって王は権力・権威の伝達・浸透をはかり、統制ないし監視をおこなわせた。

  王の遠征にさいしては、各地の部族長や豪族、そして地方の伯たちは、シャルルマーニュ自身または彼が派遣した軍の将軍を前にして臣従誓約の儀式(オマージュ)をおこなった。そして、フランク王自身または彼が各地方に派遣した王代官が管区内の各地に巡回・巡行してくるたびに盛大な儀典――巡回裁判やその地の身分代表を集めた評議会――が催され、この臣従関係は再確認された。だが、それはフランク王国という共同主観を再確認する場でしかなく、永続的な統治=支配のための政治装置や行財政装置を組織化するものではまったくなかった。
  このような王ないし王直属の代官の巡行と儀式が遠征 campaign という活動だったが、たとえば王や地方長のいずれかまたは両方の代替わりごとにこの儀式がおこなわれることで、帝国や王国の共同主観(観念体系としての制度)は再生産され、継続された。その限りで、王国の制度は地方長たちの意思や行動を制約した。しかし、地方長の地位が世襲されていくうちに、このような儀式による臣従関係の再確認=更新はされなくなっていった。
  そうなると、地方長の家門が権力を維持している場合、その権力は王国ないし帝国中央の王の権威に裏打ちされたものではなくなり、各地方の有力者たちのあいだの力関係にもとづく構造となっていく。地方長の身分と権力は世襲されていくうちに、王との臣従関係によるものではなく――王の権力や権威は忘れ去られ――、その権威や権力はその家門に本来的に備わった権能と観念されるようになっていく。こうして、地方有力者たちの権力の分立割拠状態がもたらされる。

  そういうしだいで、帝国や王国の権威の体系――共有された観念体系(共同主観)――は解体し崩壊していくことになる。
  地方長としての伯たちの多くは部族長たちの家門と融合するかして、自ら部族長の地位を獲得していくようになった。
  ところが、各地方でも、開拓や開墾によって農村社会が地理的・構造的に発展拡大していくのに応じて、あるいは農業の発達に応じて、旧来の地方長の権力や権威の埒外で新たに城砦や都市集落が建設されていくと、旧来の公伯(地方長)の権力や権威も弱体化し失われていく。新たに城砦を建設し、都市集落や農村を支配するようになった新たな有力者がその地方の支配者となっていく。これが城砦領主層だ。
  こうして、地方長としての公伯の権力はより多数の城砦領主たちによって分解され、分割されていく。そして、そのなかで軍事力と富を拡大した城砦領主が周囲の弱小な領主たちを臣従させ、権力と権威を拡張することで、新たな出自の公伯となっていくことになった。
  この過程が、ノルマン族の制服活動のようなできごとがきっかけとなることもある。
  このさいにも、新たな伯領や公領ないし侯国は、その地方の最有力者を盟主とする領主たちのあいだの人格的な――何ら物質的な統治装置をともなわない――同盟関係によって成立することになった。
  旧来の有力者が没落するとともに新たな有力者が勃興していくという構図は何度も繰り返されて、やがて領域国家形成への動きが始まることになる。

  このような文脈で、西フランク王位を代々世襲してきたカペー家(パリ泊を兼務)がパリとイール・ドゥ・フランスを支配する地方領主となっていき、王が王国内の領主や司教、有力都市の代表を召集する王会(身分評議会)にはパリとイール・ドゥ・フランス近隣の弱小領主層だけが参加する状態となった。王位がヴァロワ家に移っても、同じ状況が続いた。
  他方で、ノルマンディ公やアンジュー伯、ブルゴーニュ公などの有力君侯たちは王室ヴァロワ家の権威を無視するようになっていく。さらに、彼らはパリの王権から見て観念上は格下の地方侯国の君主にすぎないにもかかわらず、自ら各地の君侯として有力身分を召集して徴税や軍務への徴募などの権力を裏打ちするために身分評議会を組織していくことになる。
  フランクの王よりもはるかに強大な権力を保有する地方君侯たちが、ガリアの平原で覇を競う状態が出現した。ヨーロッパ世界貿易のネットワークも形成され始め、有力諸都市を結節点とする富の広域的で大規模な流通と集積が進展していく状況を背景として、有力君侯たちのあいだの領域国家形成をめぐる競争が切り広げられるようになっていく。
  これが百年戦争の背景にあった文脈なのだ。

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