用語に関するノート 3

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アングリカン・チャーチと長老派教会

  イングランド国教会、正確には《 the Anglican Church :アングリカン・チャーチ》――大雑把に言うと、アングリカンはイングリッシュのラテン語表記――は「プロテスタント」ということになっている。プロテスタントとは、ローマの正統派教会に対して異議申し立て(プロテスト)をする宗派という意味だ。

ヨーロッパ規模での権力闘争としての宗教改革

  16世紀に、イングランド王と王権派貴族は、信仰を理由とするローマ教会やエスパーニャ王権やフランス王権、そしてイタリア系の金融権力のイングランド社会への介入や支配を弱めるために、イングランド王を頂点とするナショナルな教会組織を形成しようとした。
  じっさいには、ローマ教会に属していた教会や修道院の資産を王室と王権派貴族たちが奪い取って自分のものにし、巨額の教会税の収入をローマに送金していたイタリア人金融家の宮廷への影響力を削ごうとしたようです。教会税はローマに送られずに、王室の収入となった。
  その代わりに、爵位を与えて宮廷にブリテン土着の金融業者や貿易業者を結集させて、それまでイタリア人金融資本が手にしていた利権や特権を与え、引き換えに多額の運上金を王室に納めさせた。

  このように、現実には富と権力の争奪戦が「宗教改革」の内実でした。宗教や信仰は「二の次」以下で、金まみれ、権力まみれ、血まみれの醜悪な争いだった。
  そのため、祈祷書の内容など、新興の中身については、国教会とカトリックとのあいだには、それほどの差はなかった。
  王室によって指導統制される教会組織と新たな言語が重要な要因となって、しだいにイングランド国民、すわなち国民として政治的に組織活かされた住民集合が形成されていくことになった。
  宗教改革までは、イングランドでの公式の教会行事や公聖職者の会話や文書ではラテン語ないしゃフランス語が用いられていた。宮廷での文書や会話ではフランス語が公用語とされていた。その意味では、イングリッシュで表記された聖典が編纂され、礼拝や説教でイングリッシュが使われるのは、文化的・政治的に画期的な大事件だった。
⇒イングランド国教会の成立の詳しい歴史を読む

スコットランドの事情

  スコットランドでは長老派教会などのファンダメンタリストたちは、王室を中心とする「国教会」のやり方は「手ぬるくいい加減だ」と批判し続けてきた。というのも、イングランド王を首長とするイングランド国教会は、17世紀にはイングランド王位を手に入れたスコットランド王ステュアート家(カトリック教徒の家門)が親カトリックの政策を展開すようとしていたこともあって、教義や行動スタイルがjカトリックに近かったからだ。
  スコットランド王国のプロテスタントは、フランス王室や貴族の支援を受けている王権が続いてこともあって、イングランドよりもはるかに厳しい環境で教会改革に取り組んできたからだ。
  スコットランドは長い間、フランス王権による強い影響力・統制のもとにあった。婚姻をつうじて、スコットランド王家には、フランス王国の王族や有力貴族のメンバーが入り込んでいた。そして、宗教=教会運営にもやたらに介入していた。
  つまりローマ教会=カトリックの権力をスコットランドでも扶植してきたのだ。その分、プロテスタントの運動は厳しく弾圧されてきた。
  したがって、カトリックに対してより厳格な対抗・批判精神を盛り込んだ「宗教戦争」が展開された。その先頭に立った教団=宗派が長老派教会だった。
  スコットランドでの宗教抗争が決着したのは、イングランドの名誉革命から20年もあと、18世紀のはじめだった。300年間近く宗教=教会闘争が続いたのだ。
⇒スコットランドの宗教改革を詳しく知りたい

国民的規模での集権化への道

  この「宗教改革」を国家論ないし国家形成史という視点から分析すると、
  フランス、エスパーニャなどの大陸の有力王権とか有力君主に従属する属領のような地位にあったイングランドの王権が、教会組織や宗教思想などをつうじてイングランドを統制・支配しようとする権力構造から離脱しようとする試みと見なすことができる。
  もとより、きっかけは偶然で王権の動きは恣意的だった。だが、イングランド王権が教会組織を大陸の束縛・支配から離脱させて、イングランドという国民的規模で再編成する結果となった。その意味では、国民国家の形成への最初の動きとして位置づけることができる。
  イングランド王権は、宗教上の理由で介入しようとするフランス王権やエスパニャ王権と対抗するため、しだいに域外の有力商人よりもロンドンやブリストルなど域内諸都市に基盤を置く商人たちの利益を優先するようになる。
  イングランド商人たちも、冒険商人組合(マーチャント・アドヴェンチャラーズ)などの団体を組織して、王権に多額の賦課金や税・運上金を納めて貿易や産業に関する特権を買い取り、王室の周囲に結集するようになっていった。
  こうして、王権の周囲にイングランドの商人や有力宮廷貴族が結集して、独自の利害や権力を意識する集団が形成されていった。
  やがて17世紀の市民革命期に親フランス的なステュアート王室が廃絶・放逐されるのは、国民形成を進める支配的諸階級の政治的要望からかけ離れているばかりか、敵対的だったからだ。その意味では宗教改革から市民革命期までをひとまとまりの過程として見ることができる。
⇒さらに詳しいイングランド政治史を学びたい