用語に関するノート 1

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亡命ロシア人ピアニストたちの影響

 「社会主義革命」が激烈に展開する1917年〜1920年代のロシアからは、多数の人びとが脱出・亡命した。
 ここで注目するのは、貴族層ないし上流階級の音楽家、とりわけピアニストたちだ。
 ロシアでは革命直後から1924頃までは、芸術や学術で多くの前衛的な作品が生み出された。だが、それ以降はスターリン派ないしは教条的革命家たちの覇権が確立したことから、彼らの好みを逸脱する試みは弾圧・封殺されていく。
 粛清の嵐のなかで、多くの創造的な科学者や芸術家が迫害され、あるいは命を奪われていった。その後、学術や芸術ではスターリン派に許可された、「社会主義的」という形容詞をかぶせられた、大衆迎合的で面白みのない作品や方法論が幅を利かせていった。

 そんなこんなで、1950〜60年代になると、20世紀初頭から革命初期までの芸術や学術においてひと際輝きを放った試み、あるいはロシアン・アヴァンギャルドはすっかり消滅し、高度に洗練されてはいるが「型にはまった」「平板な」「一見わかりやすい」方法論や作品が多くなっていった。

 ところが、音楽=ピアノの世界では、1950年代末にロシアの芸術界に衝撃を与える事件が起きた。
 1958年の第1回チャイコフスキー・コンクール・ピアノ部門で、アメリカ人ヴァン・クライバーンが優勝したのだ。
 ソ連音学界としては、このコンクールを芸術における西側対する社会主義陣営の優位を印象づけるために準備してきた。背景には、当局のイデオロギー=文化戦線における闘争での優越をめざす方針があった。とりわけ、ピアノ部門では天才児に英才教育を施して洗練させて、周到に準備してきた。
 それなのに、自由主義陣営の旗手、アメリカ出身のピアニストに優勝をさらわれてしまった。ソ連の音楽アカデミーは衝撃を受けた。

 しかし、音楽好きのロシア人の多くは、その結果に妙に納得していた。準優勝のロシア人ピアニストも、その結果を素直に受け入れた。
 というのも、コンクールの審査員やピアノファンたちは、クライバーンの演奏に「失われた懐かしいロシア」を感じて深く感動したからだ。技術では、1位と2位とのあいだに差はなかったといわれている。

 何が成績評価を分けたのか。
 クライバーンの演奏には、革命初期に失なわれた「ロシアらしさ」「ロシア風なるもの」が物の見事に再現されていたからだった。

 クライバーンを指導したアメリカの音楽院の教授は、ロシア亡命貴族ピアニストの系譜を受け継いでいたのだ。
 ロシア亡命貴族の末裔の音楽家たちは、西ヨーロッパやアメリカで、亡命以前のロシア上流階級に普及していた感受性や方法論、演奏法をそのまま保存し洗練させていたのだ。

 もちろん、チャイコフスキー・コンクールの結果には、1950年代末のソ連(スターリン死後5年経過)では、スターリン批判が公然と始まろうとしていた時代背景も影響しただろう。
 ソ連の学術・芸術エリートたちは、スターリン体制のもとで絶滅させられたロシアン・アヴァンギャルドの成果を取り戻そうとしていた。
 当局の目を恐れて「ロシア的なるもの」への愛着や郷愁を押し隠してきた民衆も、おずおずと失われた過去の遺産や伝統にふたたび近づこうとしていた。
 音楽の世界で「デタント」がいち早く始まろうとしていた。

 ともあれ、西側で亡命ロシア人の音楽観や演奏法を保持してきた音楽家たちが、その後、大きく脚光を浴びてくことになった。

 それは、やはり「大衆化」「マスプロダクション」の傾向のなかで、清澄・平明だが平板化してきた西側の芸術にも、20世紀初頭のロシア貴族階級の方法論や、感性、価値観が衝撃と影響を与えることになった。
 それがきっかけで、過去のヨーロッパの古典的・ヒューマニック(人文主義的)な方法論を再検討する動きが目立つようになった。
 その内容については、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』を参照してほしい。