認識作業としての歴史

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  この世界の事象の時系列的な推移・運動は、たぶん偶然の連鎖でしかないだろう。
  「歴史」とか「歴史の必然性」というものは、人間の精神活動、認識作業の帰結、成果でしかないだろう。

  けれども人間は、人類の存在様式の過去から現在までの時系列的な推移を、認識作業として、認識活動をつうじて、筋道を立てた流れ、物語として分析し組み立て、理解しようとしたがる。
  どうやら人間の頭脳や精神というものは、そういう構造的傾向をもっているらしい。
  というのは、人間の頭脳の思考は、因果関係とか根拠の提示、当然の流れというようなカテゴリー配列に整理・整序しないと「認識した」とか「理解した」と感じない論理回路をもっているようだ。

  そこで人類は、はるか古代から神話や年代記(歴史記録)として、自分たちの世界の歩みや動きを記述してきた。特定の価値観や倫理観あるいは世界観に沿って、この世の中の無数のできごとから筋立ての中心となる事象を選び出して、一定の道筋に収斂させるように、流れを描き出してきた。
  してみれば、歴史とは、事象の時系列的変動そのものを語るのではなく、不可避的に「歴史観」あるいは「世界観」を語るということになる。
  そのことは、カントが言うように、人間は世界の「物自体」をそのまま認識するのではなく、一定の姿態・形相(Gestalt)において、物自体を一定のフィルターを通して反映し組み立てた認識を描くにすぎないということかもしれない。
  したがって、私たちは誰かの歴史記述を読むとき、そこに拾い上げられなかったことがらをどう位置づけるかと反問しながら、認識を構成しなければならない。