惣領冬実の漫画作品『チェーザレ 破壊の創造者』を読んで考えたことを記す。
マンガは社会科学や歴史学があつかうあらゆる事柄を題材にして――しかも視覚的な認識を与えるという点では学術を超えるかもしれない可能性を秘めて――描くことができるのだなあ、という感慨を覚えたのがきっかけで始めた考察である。
《 Il Principe 》とは、ニッコロ・マキァヴェッリの著作『君主というもの』(1532年版)のこと。この著作は、学術(イデオロギー)の次元での《近代》をヨーロッパにもたらした画期的作品だ。
これによって、思想や思索の世界では中世が葬り去られた(近代が始まった)といってよい。
この著作によって、ヨーロッパで近代政治学が社会科学としてほぼ確立したと見てよい。
マキァヴェッリのこの著作は、15世紀から16世紀のヨーロッパ(主としてイタリア)の社会と権力闘争の動きを透徹した視点で観察して、統治システム(レジーム)ないし権力装置としての『君主』「君主権ないし王権」「都市政庁」「王権国家」を完膚なきまでに批判・分析し、その仕組みや運動法則について、行動科学論的にして関係論的な洞察を加えた。
それまでのローマ教会神学、スコラ哲学にもとづく虚偽・虚飾に満ちた統治者と統治レジームの仕組みについての理論や規範論を打ち砕き、人間の政治的行動(統治や戦争をめぐる諸活動)を客観的=批判的な分析の対象に引き据えた。
つまりは、権力の存在構造や運動形態、そして権力者の行動や心理から宗教的・イデオロギー的な虚飾を引き剥がしてズタズタに切り裂いてしまったのだ。
その結果、政治権力というものの本体、権力構造がいかに支配者や権力の担い手、権力闘争の参加者の存在を拘束・呪縛するかについて、完膚なきまであばいたのだ。
こうしてマキァヴェッリは、「君主というもの il principe (君主権とその担い手)」を崇拝や畏敬(あるいは怨嗟や願望)の対象から引きずりおろして、客観的・批判的な認識(科学的分析)の対象にした。
言いかえれば、君侯の権力や行動あるいは統治レジームの存立根拠や基盤の脆さ、変動要因、担い手の心理や意識の存在拘束性を暴き出して、権力を飾り立てている虚偽意識や虚飾を完膚なきまでに剥ぎ取ってしまったのだ。
それは、王や君侯の権力や権威・正統性は神によって与えられたという「神授王権思想」を根底からひっくり返す理論だったから、神授思想を盾にしている権力者や彼らを擁護する思想家たちから無視され非難されることにもなった。
そのため、『君主というもの』の政治思想史上の圧倒的な意味が再発見され研究されるようになったのは、5世紀近くものち、20世紀になってからだ。
このサイトでも、イタリアの歴史については何度か触れている。そのさい、イタリアでは、近代はすでに12ないし13世紀には始まっていた、と述べてきた。
イタリアと地中海世界では14〜15世紀には、世界市場をめぐって「経営体としての資本」と「主権国家」とが入り乱れて同盟しあるいは相争う仕組み、その構成要因のほとんどすべて(少なくともその萌芽)がそこにはすでに存在していた、と。
世界システム――その内部で多数の政治体と企業が優位や覇権をめぐって相争う――権力システムとしての資本主義的世界経済のプロトタイプ・萌芽が、そこには見まごうことなく存在していたのだ。
そのことは、ニッコロ・マキァヴェッリが研究対象としたことがらから読み取ることができる。
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