中世ヨーロッパの都市人口

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  古代ローマ帝国の崩壊後、イタリア地方を除くヨーロッパ各地に出現する都市の人口規模――せいぜい数百から1000程度――は、私たち日本人の感覚からすると非常に小さい。
  その原因は、ローマ帝国で組織されていた遠距離貿易ネットワーク(朝貢貿易も含む)による食糧供給というシステムがほとんどすっかり崩壊してしまったからだと考えられる。

  一方、アジアの温潤地域やモンスーン地域でははるか古代から米が栽培され、それが人口の主要部分の再生産を支えていた。
  米は湿地植物で、しかも非常に密集して生育し、食料となる種子の結実率がきわめて高い植物だ。そのかわり河川流域や湿地帯で、圃場水田の灌漑・水利施設の建設にはかなりの人出を要する。つまり、かなり高い人口密度を前提とし、また果実の生産性が高いので、その分だけ多くの人口を支えることができる農産物なのだ。
  しかも、毎年雨季には、大量の降雨による河川の氾濫や高水位を利用した灌漑(上流からの養分の補充)が容易だった。そこで、大した施肥をしなくても肥沃度の回復が可能だった。土地の生産性の低下はあまり見られなかった。
  というわけで、アジアでは古代から―貿易システムの発達がなくても――人口規模の大きな都市群が発達するにはそれほどの苦難はなかったと思われる。

  これに対してヨーロッパで主食とされた小麦・麦類は、冷涼な乾燥地帯の植物だ。つまりは、あまり水利施設や灌漑などのためにそれほど多くの人口を必要としない。しかも食糧となる種子の育成率はかなり低かった。そのため、栽培に要する人口は少なくてよい代わりに、それが食料として支えることができる人口は小さくなる。
  そして、4世紀から12世紀まで、ヨーロッパの平原の大半は原生林と荒蕪地で覆われていた。そういう地理的条件のもとで遠隔地からの食糧の補給を可能にする交易システムが、ローマ帝国の解体とともにひとたび崩壊してしまった。
  古代ローマ帝国の巨大な都市の人口を支えていた遠隔地からの食糧供給システムが失われてしまった。

  というわけで、13世紀頃まで、中世ヨーロッパにおいて人口1,000を超えるような都市集落は――イタリアを除いて――きわめてまれだった。
  ところが、地中海では11世紀頃から、そのほかのヨーロッパ地域では13世紀頃から遠距離貿易システムが成長し始めた。農地の開墾・拡大も進んで、貨幣を仲立ちとする余剰農産物の取引システムも発達し始めた。
  こうして、人口が数千から1万を超える都市群が成長し始めた。とはいえ、次の世紀にはペストなどの疫病の蔓延によって、都市人口の半分近くが失われることになった。