この記事では、ヨーロッパの軍事史、戦争史における傭兵について考察する。傭兵という現象を切り口として戦争や軍事組織というものについて考えてみる。
映画「戦争の犬たち」の背景として扱った問題群を、単独のテーマとしてまとめて、ごく大雑把に考察することになる。⇒ヨーロッパの軍事史(中世〜近代)の研究
傭兵( mercenary, Landsknecht )とは何だろうか。
歴史学あるいは社会科学のテーマとしてこの疑問に応えるためには、おそらく数冊の専門研究書が必要になるだろう。そのくらい難しい問題だ。
とはいえ、ここでは映画鑑賞の参考、予備知識として必要な限りで、ごく簡単に初歩的な事柄を検討するだけにとどめておく。
傭兵とは、純然たる商業的利益のためにビズネスとして、貨幣的報酬と引き換えに軍事的サーヴィス(戦争の仕事、戦闘活動)を提供する産業ないし職業だ。この「制度」には長い歴史がある。
現代の世界においてシャノンたちが担っていた「傭兵」という職業は、古い歴史をもっている。古代ローマ時代の末期にも傭兵といわれる現象があった――ゲルマン諸族の帝国侵入に対処するために、すでに帝国内に定住していたゲルマン部族から報酬と引き換えに兵士を徴募した――らしいが、ここでは、ヨーロッパ中世晩期から近代にかけての傭兵と戦争、軍事組織の変動を考察する。
というのは、ここでは貨幣経済の発達にともなって生起し発達した制度であると考えるからだ。
してみれば、傭兵制度は、貨幣経済の発達の文脈を背景に置きながら、金銭的報酬と引き換えに兵員を徴募し軍事力を組織する――権力組織としての――都市や王権、国家の財政と関連づけて考察しなければならない。
ヨーロッパの歴史のなかで「傭兵」という事象が目立ち始めるのは、北イタリアでは12世紀、そのほかのヨーロッパでは14世紀頃からだ。
傭兵は、通常、貨幣(貴金属)による報酬によって軍事サーヴィスを提供するわけだから、商品・貨幣経済のある程度の発達を前提とすることになる。
このように傭兵というものが〈戦争と軍事サーヴィスの商業化〉であるとすれば、まさにそれは商業・貿易(商品経済)の発達とともに成長してきた制度ともいえる。
古代ローマの遺制ないし残骸を受け継いだ北イタリアでは。早くも11世紀頃から、当時のヨーロッパの基準(標準)からみて飛び抜けて巨大な諸都市が成長し始めた。
地中花粉分布の分析によれば、11世紀頃、ヨーロッパ平原のほとんどは原生林=自然林に覆い尽くされていて、一部が草原や湿地になっていた。人類社会は、森林の大海のなかに孤島のような集落や開拓地として点在していたのだ。
それが、14世紀中には、自然林はあらかた伐採・開墾され、平原地帯の大半は農地(可耕地、遊休地)や村落、そしてごく一部が都市集落などで占められるようになった。
西ヨーロッパでは7世紀頃から、古代ローマ帝国の兵站拠点や河川や港湾に沿ってローマ教会の司教座が置かれ、その周囲に都市集落が成長し始めた。そういう都市集落の領主は司教や修道院長だった(聖界領主)。
識字階級としての聖職者たちは、古代ローマ時代からの知識や技術を受け継いでいたので、集落の周辺の農地開墾や農村づくりを指導し、でき上がった村落と圃場を所領とした。
はじめのうち都市集落には、教会の僧侶や修道院の修道士、その従者たちのほかに、彼らの衣食住や宗教儀式などの需要をまかなう手工業職人や小商人たちが集住していた。
11世紀頃から北西ヨーロッパ各地を遍歴する商人たちの活動によって、大西洋岸・北海・バルト海沿岸の諸地方を結ぶ遠距離貿易が形成され始めたという。高価な財貨=商品を運ぶ商人たちは集団を組み、防衛のために武装した騎士や従者を雇っていた。
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