中世の政治的・軍事的権力

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  古代や中世の政治的・軍事的権力や法的権限は、属人的な仕組みで成り立っていた。
  属人性とは、権力や権利・義務の根拠や効果が、団体を構成する個人や集団(の人格性)に固有のものと見なされていることを意味する。したがって、彼らが地理的空間を移動すれば、それにともなって権力や権利・義務関係がおよぶ範囲・対象も地理的に移動することになる。

  王国やら帝国、侯国、あるいは君主の宮廷や家産・家政装置にすぎない国家という政治的・軍事的組織もまたこのような原理で組み立てられていた。
  古代や中世の巨大な王国や帝国が、君主の死去や没落でたちまち消滅してしまうのは、王国・帝国の権力が君主のパースナルな存在、そしてその家臣や従者とのパースナルな関係によって組織されていたものだったからだ。
  だから、王や領主のそれぞれで代替わり(代襲・相続)が起こるたびに臣従契約をとり結ばないと、王権や帝権はたちまちおよばなくなってしまうものだった。
  それゆえ「国境」「国家の領土」というシステム、や観念はまったく存在しなかった。
  王国や帝国の地理的範囲は、王や皇帝に臣従する家臣や領主の顔触れによってころころ変わった。

  これに対して、近代の政治的・軍事的権力の基盤は、属地的な仕組みで成り立っている。
  属地性というのは、権力や権限が、一定の土地の地理的範囲に固定されているのであって、その土地を所有地=領土として有効に保有することを基礎として成り立つ仕組みである。
  したがってたとえば、国家の主権や権限は、基本的にその政治体が有効に支配する領土の内部、国境の内部にだけおよぶ。そして近代国家の市民権は、住民が一定の国家の領土の内部に生まれ居住し、中央政府から国籍や市民資格を認められることによってはじめて成立する。

  それゆえ、古代や中世の王国や帝国を、私たちが日常使う意味での「国家」と呼ぶのは、大きな間違いである。固有の領土をもつ属地的団体としての国家は、近代になって初めて出現した政治的・軍事的状態なのである。
  だから、フランス王ルイ14世の「余は国家なり」という言葉は、現在の国民国家とはまるで違う意味合いを持つ。せいぜい「フランスで最有力の君主は私であり、その王室の当主は私だ。だから王権の統治組織は私の意思で統制する」という程度の意味で、「だから臣民は王権の立法や命令に従うべきだ」ということにすぎない。
  彼の脳裏には、今日のフランス全土を領土とする国家制度というものはまったく思い浮かべられていなかったはずである。彼の王室の家産統治装置は、今日のフランス国家装置の1000分の1ほどの規模にすらおよばなかった。