エスパーニャ王国の現実

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  15世紀末にイベリア半島では、カスティーリャ王権が中心となってエスパーニャ連合王国がつくり上げられた。連合王国成立の直接のいきさつは、カスティーリャ王室のイサベルとアラゴン王室のヘリーペとの婚姻が成り、その後双方が王位を継承し、両王国を共同統治することになったことだった。
  しかし、カスティーリャ王国は、実際には「カスティーリャ・イ・レオン連合王国」つまりカスティーリャ王国とレオン王国との連合で、アラゴン王国はアラゴン王国とバルセローナ侯国との連合で、それぞれの王国内部で別々の王室機関が独自の法を維持しながら統治していた。
  しかも、これらにアンダールシーア公領、バレンシーア公領となどが併合されて、エスパーニャ連合王国が成り立っていた。エスパーニャはやがてポルトゥガル王国をも併合して、名目上の版図はさらに拡大した。
  とはいえ、イベリア北東部のナバーラ(ナヴァール:中心部はヴァスク地方)王国は、フランス王権に臣従していた。

  カスティーリャ王室はオーストリア王室のハプスブルク家との婚姻によって、さらにオーストリア、ネーデルラント、フレンデルン(ベルギー)、ブルゴーニュを獲得する。そして、イタリアやサルデーニャ(バルセローナ侯領)とシチリアをも制圧し、その上にアメリカ大陸の植民地をも領有することになった。

  しかしながら、これらの地方王国や領邦は、旧来からの固有の法を盾にとって、カスティーリャ王室による直接の徴税やら軍役要請を拒否していた。
  しかも、最有力のカスティーリャ王国では、有力な地方貴族が自分の所領内への王室の関与を強力に撥ねつけていた。実質的にカスティーリャ王の主権がおよんだのはカスティーリャ王室の直轄領だけだった。
  だが、有力貴族は有能な軍人で、王の委任を受けて、ネーデルラントやフランデルン、イタリアなどの支配や統治に力を発揮した。
  その意味では、地方の分立割拠をともなう寄せ集めの王国にすぎなかった。その限界は、17世紀の後半になると露呈して、エスパーニャは分裂してしまった。そしてカスティーリャの王室は断絶し、18世紀はじめには、フランス王に臣従していたナバーラ王がエスパーニャ王位を継ぐことになった。

  歴史の教科書では、エスパーニャはヨーロッパ最大の絶対王政と記されているが、実際は絶対王権が成り立つ前に足踏みしたまま、やがて解体してしまった王権だったのだ。
  それでも、イタリアの小規模な都市国家に比べれば、途方もないほど強大な権力組織だったとは言える。