1400−1525年のバルト海と北欧の状況

  この絵地図は、www.wikiwand.com/oc/Union_de_Kalmar から歴史地図の図版を引用したもので、原本のカタルーニャ語表記を邦訳して若干修正してある。おそらくカタルーニャ語を母語とする歴史研究者によって作成されたものだろうが、歴史地図作成の意図や文脈はわからない――絵地図だけ単独で公開されていて、ほかの記事への参照検索リンクは見当たらなかった。この地図がどのような歴史的経緯・文脈を説明するために用意されたのかは不明だ。
  私としては、スウェーデン王権の黎明期、カルマル同盟からの分離独立の動きをバルト海一帯の地政学的状況のなかでイメイジするために都合が良いので参照引用したしだいだ。
  1397年のカルマルの盟約の成立直後から1523年のスウェーデンの分離独立までの時期のこの地域の地政学的状況をうまく図示してあるので、できるだけ修正をおこなわずに引用した。
  ただし、ドイツ騎士団領(騎士修道会領)については、15世紀前葉の版図(支配地)を示している――つまり、騎士団領の膨張が頂点に達した頃合いだ。この地域の交戦のマークは、ドイツ騎士団とポーランド王国=リトゥアニア公国の連合軍との戦域を表していて、これらはタンネンベルクの闘いの初期段階に位置づけられる。
  ドイツ騎士団はグルンヴァルトの戦闘から始まる一連の戦いに敗れ、その膨張・侵略の圧力は急速に弱まっていった――騎士修道会侯国としての自立性を失って解体に向かっていった。スウェーデンがカルマル同盟から独立する16世紀前葉には、オストプロイセンはポーランド王国に属す領地としてのプロイセン公領となっていた。オストプロイセンは名目上ポーランド王に臣従する形になったが、その王権たるや地方貴族たちによって王領地の保有・支配権や課税権を分割横領され、衰退・没落していくことになった。
  スウェーデン王国がカルマル同盟から離脱独立してから後も、南部のルンド司教領やスコーネ(スカニア)地方は17世紀後半までデンマーク王権の支配下にあった。この地方は比較的温暖で麦類の栽培が可能だったので、スカンディナヴィア半島では最も肥沃な農耕地帯でデンマーク王国の有力貴族の大所領もあった。こうして、スウェーデン王と貴族層は、農耕主体の直営地経営に比較的に適した地方を支配できなかったため、逆にむしろ財政収入を得るために鉱工業と商業を育成しその利潤の分配に参加しようとする傾向が強まった。その結果、ハンザやネーデルラント商業資本への従属を深めざるをえない条件――農業中心の所領経営――がきわめて限定され、ごく限られた地域ではあれ近代的な産業育成を企図する王権統治に向かうことになった。
  この地図で「ロレーヌ十字架」マークは凡例が示すとおり、ローマ教会の司教座(都市)を示している。都市の〇が緑色のものは、形の上ではマクデブルクないしブレーメンの都市法および司教座系に属す諸都市だと思われる。ハンザ同盟のバルト海貿易が盛んになるにしたがって、ブレーメンやマクデブルクからリーガ大司教の管轄系列に包括されるようになったと見られる。
  それらの都市では教会・聖堂参事会の組織形態や運用などでカノン法(教会法)に関わる事案は、リーガ大司教が上訴審となったようだ。しかし、ハンザ諸都市が政治的経済的に権力を高めるにしたがって、諸都市の教会・聖堂組織と運営は都市政庁ないしは在地に都市団体や商人団体の強い影響下に置かれるようになっていった。