第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟

この節の目次

1 北方交易とハンザ同盟の特徴

商人ハンザから都市ハンザへ

2 東方植民と布教活動

3 バルト海貿易圏の形成と都市建設

ⅰ ゴートランドの拠点建設

ⅱ 交易ネットワークの創出

ⅲ 都市群創設とリューベックの影響力

ⅳ リューベックの自立と商人の権力

4 同盟への歩みとバルト海覇権闘争

ⅰ 遠距離商人層の広域的な結びつき

ⅱ 商人の結集と都市の権力

ⅲ 商人ハンザとリューベックの優位

ⅳ 領邦秩序の形成と都市同盟

ⅴ デンマールク王権との通航をめぐる確執

5 都市ハンザの確立とフランデルン問題

6 バルト海での覇権確立へ

ⅰ 北欧の諸王権

ⅱ デンマールク王権との戦争

ⅲ 都市が支配する経済圏域

7 ドイツ騎士団とハンザ

8 ハンザの優位とヨーロッパ分業体系

ⅰ 世界都市を頂点とするピュラミッド

ⅱ 都市住民の階級構造

ⅲ 諸地域・諸産業の連鎖とヒエラルヒー

ポーランドの悲運

ハンザと北欧諸王国

ⅳ 再生産の支配権力としての商業

9 ハンザの衰退

ⅰ 人口構造と価格体系の変動

ⅱ 信用・金融システムの未発達

ⅲ 諸王権の成長と競争相手の台頭

東欧の諸都市の離脱や通商拠点の喪失

ⅳ 協調関係の解体

10 ニュルンベルクの勃興

11 貿易構造の転換と都市の興亡

7 ドイツ騎士団とハンザ

  ハンザを構成していたのは商人団体や都市団体だけではなかった。ドイツ騎士団もハンザに参加していた。ドイツ騎士団は、在俗の有力領主であるとともに宗教団体であったが、開拓と商業を営む企業体でもあった。彼らの領内のプロイセンとリーフラントの諸都市もハンザに加盟していた。15世紀には、ディートマルシュの農民団体がハンザに加入したという――直営農場を経営する下級領主もまた「農民」とされていたから、どのような階級に属す農民かは不明。
  ドイツ騎士団は、時代によって領地は変移したが、おおむねポンメルン、プロイセン、リトゥアニアを支配する独特の侯国をなしていた。それ自体ハンザに加盟していたが、バルト海・東ヨーロッパでのドイツ=ハンザ商人の活動と密接に関連した団体とだった。

  ところで、一般にドイツ騎士団と通称される団体は、正式にはイェルサレムの聖マリア・テュートン救護院兄弟団修道会(ラテン語で Ordo domus Sancta Maria Theutonicorum Hierosolymitanorum 、ドイツ語で Orden der Brüder vom Deutschen Haus Sankt Mariens in Jerusalem )という名称だった。
  第3回十字軍のときにレヴァントに赴いたドイツ人騎士団によって、1190年から96年にかけて、アッコンにつくられたドイツ人救護会(病院)をもとにしながら、従前の騎士修道会規則をも受け入れて設立された独立の騎士修道会だ。騎士団はレヴァントでは、イタリアやゲルマニア出身の商人団体と結びつきながら、主にアッコン港の利用税や通行税の徴収を管理していた。サラセン人によってキリスト教徒たちがパレスティナから駆逐されるまで、そこに駐留していた。
  十字軍運動は、地中海東部におけるヨーロッパ人=キリスト教徒商人団体の貿易活動や利権・権益争奪戦と緊密に結びついていた。修道会という名称にもかかわらず、かなり「生臭い」営利団体でもあった――もちろんローマ教会と教皇庁自体が巨大な利権や権益を握る組織だった。
  そのため、経営組織というか企業体としての性格を帯びた騎士修道会の組織やその運営、補給活動には商人団体が深く関与していた。騎士団は、ローマやゲルマニア各地との補給や消費輸送・送金などで商人たちを頻繁に利用していた。もちろん、遠距離の移動や遠征にさいしても、商人団体が用意する海運や陸運を利用していた。
  ドイツ騎士団は、第4代の騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァ(在位1210~39)のときに勢力を急伸させたという。ドイツ皇帝フリードリッヒ2世は教皇庁と対立したことから、ヘルマンをパレスティナにおける皇帝の政策の支えとし、教皇とのあいだの仲介役として重用した。そのため、騎士団は皇帝の保護を得て、所領や諸権利を寄進され領地を拡大、シリア海岸のほかにバルト海沿いの北東ヨーロッパとゲルマニアに広大な所領保有権を認められた。

  1211年には、ハンガリー王アンドーリャ2世からキプチャク族の侵攻から王国南東部辺境の防衛を要請されて、騎士団は黒海西岸のトゥランシルヴァニアに移動し所領支配をおこなった。しかし、騎士団総長がハンガリー王権の宗主権を認めずに騎士団領は教皇の支配下にあると主張し続けたため、1225年、ハンガリー王によってそこから追放されてしまった。
  おりしもそのとき、プロイセン人との紛争に手を焼いたポーランド大公コンラートは騎士団に支援を要請し、引き換えにヴァイクセル河沿岸クルム周辺の土地授与を約束した。十字軍としてパレスティナに遠征していた騎士団と商人団体によって組織された騎士修道会が、プロイセンの地にやって来た。ドイツ騎士団はコンラートと同盟してオストプロイセンとポンメルンで伝道と十字軍活動――実態はプロイセン人を追い立てて植民や開拓を推進――を展開した。
  そのさい、皇帝フリードリッヒも「リミニの金印勅書」を発行して、クルム(クールマルラント)ならびに今後プロイセンで取得する土地の占有と帝国諸侯並みの裁判権と所領支配権の行使を許可する特許状を与えた。その後1233年の「クルム特権条」で特許状は補完され、グレゴリウス9世からもリエティの教皇勅書を得て、騎士団は一帯での包括的支配権を認められた。
  とはいえ、法的な許可を得ただけで、実際の土地獲得や開拓・植民、経営は騎士団の活動にかかっていた。皇帝の特許は、事実上、ポーランド大公領で騎士団の領地を力づくで拡大して構わないという権利の承認だった。
  その後、騎士団はポーランド大公に対抗して支配地を広げ、クルム地方全域を騎士団領公国に編合していった。その後もオストプロイセン、ポメラニア一帯に所領を拡大。領地をめぐってポーランド大公と対抗し続ける。
  騎士団は、ポーランドの北部辺境リトゥアニアのキリスト教化=伝道という名目上の目的をあからさまに拭い捨てて、近隣のキリスト教諸侯領(ポーランド王国やリトゥアニア大公国、ノヴゴロド侯国など)に侵攻して領地を拡張しいていく。騎士団は所領からの豊かな収入をもとにヨーロッパ中から傭兵騎士を雇い入れて軍備を拡張した。艦隊を創設してバルト海でも海洋権力を伸長させた。だが1410年には、ポーランド=リトゥアニア同盟軍がグルンヴァルト(タンネンベルク)で騎士団を破り、その軍事的勢力をくじいた。
  この地方の諸都市はドイツ騎士団の専制的で横柄な支配に反発して、ことあるごとにポーランド大公(のちに王権)による支援や庇護を求めた。1410年に騎士団が戦争に敗れて権力の空白が生まれると、プロイセン都市連盟を結成し、ポーランド=リトゥアニア連合王国への間接的な服属=臣従関係をとり結んだ。

  以上の経過を総括すると、こうなる。
  12~13世紀のポーランド、プロイセン、リトゥアニアでは、西スラブ諸侯の勢力争いと分立割拠状態のなかで、集落建設や開墾をつうじて生産の基盤と秩序を打ち立てるため、聖俗諸侯がドイツからの植民を奨励した。諸侯は、入植農民には貢租減免とドイツ法による自治を認めた。都市にもドイツ人が定住して、マクデブルク法による自治共同体が生まれた。開拓によって生まれた農村と都市の軍事的防衛および統治のため、宗教騎士団が召致された。
  というのも、そこにはスラヴ諸族が居住していてキリスト教化を拒んでいたため、植民や開拓には、伝道ないし反抗的な異教徒討伐を名目にして彼らをヨーロッパ的秩序=文化に包摂・征服し、騎士領主の土地支配レジームに従わせるという目的がともなっていたからだ。
  領主制支配装置としての騎士団は、プロイセンからリトゥアニアにおよぶドイツ騎士団領侯国を形成した。騎士団は、自らも所領経営と通商の担い手として営利事業を営んだ。そして、民族的および言語・文化的同一性を基盤に、ドイツ商人=ハンザ同盟のバルト海支配とポーランドへの経済的浸透に協力した。

  1236年にドイツ騎士団に編合されたリヴォニア(リーガ)騎士団という団体があった。その騎士団の正式名称は、リヴォニアのキリスト教信徒兄弟団または刀剣騎士兄弟団修道会 Fratres militiæ Christi Livoniae / Schwertbrüderorden だという。
  それは、1202年にリーガ大司教が呼びかけて設立した組織で、大司教は、古エストニア=リヴォニア地方の原住諸族がクールラントやリーガ湾からノヴゴロドにいたる古くからの交易路に立ちはだかっているため、彼らを改宗させヨーロッパの秩序=文化に従わせようともくろんでいたのだ。
  だが、騎士団は「伝道・改宗」「異教徒征討」の名目でクールラントやリヴォニア、エストニア――ドルパート司教領やレヴァル司教領などがある――で勝手に所領を拡大して、リーガ大司教への臣従(レーエン契約)を無視していた。
  そこで、リーガ大司教は1236年、リヴォニア諸族との戦いに敗れたこの騎士団を解散して、名目上ドイツ騎士団に編合させた。しかし、旧リヴォニア騎士団はその後も、僻遠の地でドイツ騎士団本部の統制を受けない自立的な支団として振る舞い続けた。ただし、自らの利害にもとづいてハンザには協力したという。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

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序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望