知のネットワークをめざして

  すでに述べたように、中世の統治レジームにおいて État や Staat ――近代に「国家」という意味を付与されることになる単語――は王の家産経営や家政装置を意味していた。ところが、13世紀以降、課税や賦課金、資金援助を求めるための身分評議会を組織するようになったが、これも État や Staat (Staaten) ――身分評議会・等族会議と訳される――と呼ばれるようになった。
  その頃、君侯たちのあいだで統治圏域の拡張競争(領域国家形成競争)が始まると、彼らは軍備強化のために王領地や王の権威がおよぶ圏域で資金援助を求めたり、課税基盤を拡大したりする必要に迫られた。それまで免税特権を認められていた領主貴族層や自治都市に対して課税をおこない、あるいは援助金拠出を求めることになったが、そのためには貴族や都市団体の同意が不可欠だった。というのは、君侯たちは徴税を担う行財政装置を備えていなかったため、貴族身分や都市団体などの同意を得て、彼ら自身がそれぞれの支配圏域の内部で徴税をおこない王に差し出させるしかなかったからだ。
  ともあれ、王への納税や資金援助をめぐっては、税や援助金の使い道――ほとんどの場合戦争――や金額、課税される期間などについて身分ごとに集会で議論し採決をおこなった。このような集会や集会を取り仕切る機関、諸身分の合同の集会を「エタ」とか「シュタート」ないし「スターテン」と呼称することになった。貴族層や都市団体(有力商人層)は身分集会をつうじて君侯の統治政策ならびに財政運営に関与し、自分たちを政治集団ないし階級として結集する制度と機会を獲得することになった。
  この場合には、王の統治を補佐し、諮問する各身分または諸身分の集合を意味する。 というしだいで、身分評議会をつうじての政治的な結集・組織化が、王権の周囲に gen / natio ――すなわち担税能力を保有して君主の統治に参与する特権集団――を形成し、やがて彼らが国民的凝集の中核として機能するようになった。
  gen / natio とは、生来の存在を意味する語だが、中世の統治構造では生まれながらにして統治に関与する特権をもつ者やその集団を意味するものとなった。これが語源となって、やがて「民族」や「国民」という語がつくられた。

  しかし、広大なフランス王国では、地方間の諸身分の利害の共有や調整がむずかしく、さらに貴族や都市の自立性が強かったため、身分評議会での議論が紛糾し、王の課税要求がなかなか受け入れられなかった。そのため、王は身分評議会を召集しなくなっていった。したがって、18世紀末まで、王国内の特権的諸身分が階級ないし「国民」として国家装置の周りに政治的に結集する仕組みが形成されないまま、ヨーロッパ世界市場での富と権力の集積競争、生き残り競争に組み込まれていくことになった。そういうことが最大の要因となって、18世紀末から19世紀前葉にかけて、過激な市民革命と強烈な国民的な組織化が呼び起こされるようになったのだ。
  私はフランス革命の最大の原因がそのことにあると認識している。当時のフランスの支配的ないし優越する諸階級(都市商業資本と地主領主)は、世界市場での競争・闘争を勝ち抜けるような統治体制を求めていたのだ。アンシァン・レジームの破壊では中下層民衆の抵抗反乱運動が必要だったが、ナポレオン・レジームを経て結局でき上ったのは近代的な国民国家のレジームだった。

  また同じ頃から、王権の意思決定や行財政にあたる家政装置として小規模ながら官僚組織が形成され始めるが、そのなかでも特に王の外交や戦争をめぐる仕事を「国務 État や Staat 」と呼ぶようになった。政治体のなかでこの機能=職務は、君主が保有するとされる大権や高権(後の時代には総じて主権とされる)のなかでも最も中核的な権能を意味するものだ。

  ついでに日本語の「国家」という語に触れておこう。
  日本でも古代以来、中国から漢字文化を受容して、王や有力君侯の家産権域た支配の仕組みを「国」ないし「国家」と呼び習わしてきたようだ。そして、明治期の文明開化にさいしても、西ヨーロッパから輸入された État や state, Staat という語に「国家」とかという訳語を充てた。有能な漢籍学者たちが、中国古典『易経』のなかから、やはり皇帝や君侯の家産的支配の体系を意味するこの語を見つけてきたらしい。歴史学や法学では、やがて「国務」という訳語も付け加わる。
  しかしながら、明治期のヨーロッパの国家なるものは、主として「近代国民国家」であった。中国の古代から日本の近世まで用いていた意味と文脈がかなり異なっている。にもかかわらず、漢字文化を1500年近くも受け入れてきた日本では、古い用語法と近代の用語法とが混淆したまま法学や政治学、歴史学などの社会科学に取り込まれてしまったのだ。もっとも、ルイ・アルチュセールやペリー・アンダースンの著作を見ると、ヨーロッパでも事情は似たようなものだ。

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