目 次
話を古代にまで戻します。
教科書では、古代にローマ帝国が地中海世界とヨーロッパの大半を支配征服したと記述されています。しかし、「支配」とか「征服」とかいう語が意味をもつほどに人口が集住する場所(都市や村落)は、その当時、ほとんどが地中海沿岸にあって、内陸部には、原生林のなかに細く小さなクサビが割り込むか、ポツンポツンと大海に浮かぶ孤島のように散在する程度だったでしょう。大きな河川やわずかな軍用道路に沿って植民地や兵站拠点(城砦集落)がありました。
そうしてみると、ローマ帝国は、ヨーロッパの陸地の面積のうち実質的には数%の地理空間をしていたにすぎません。
そして、この帝国の崩壊まぎわに民族大移動が断続し、東方や北方からヨーロッパに移動してきた諸部族が辺境の植民集落や城砦の周囲に定住して、農地の開拓、開墾、そして集落の建設を進めていきます。
そのとき、崩壊していく帝国レジームを尻目に、帝国の宗教装置となっていたローマ教会はしたたかな生き残り戦略を繰り広げていきます。というよりも、献身的な修道士たちが、開墾・開拓や集落づくりにさいして農耕技術や村落の規範や運営を伝授・指導していったのです。当時、ゲルマン諸部族のなかに溶け込んで、古代からの知識や技術を伝導・普及した知識人は主として彼らだけだったのです。
そして、集落ができ上がると、修道院施設や教会を建設し、そこを住民の集合場所や精神的生活のよりどころにしていきます。こうした宗教施設は、ローマ教会への忠誠や臣従を誓約するようになります。開墾や村落建設を献身的に支援した修道士の努力で、ゲルマン諸族のなかにキリスト教が浸透していきました。
さて、そうした開墾や農村建設・集落形成(つまりは定住)が徐々に進んでいくなかで、各地の部族の首領とその従者たちが、周囲の部族との連合・同盟を築き上げて、小規模な侯国を形成していきます。
やがて、こうした多数の侯国のあいだの連絡・交通の仕組みができ上がっていきます。移動や殖民移住などによって、あちらこちらの部族社会ができていったので、移動連絡の道筋は早くからつくられていたのでしょう。
そうなると、小さな部族侯国は戦役や交渉などによって、より大きな連合に成長していきます。おそらく「大きな侯国」という意味での「王国」、部族連合の盟主としての王が統治する微小な単位が生まれていったのでしょう。
7世紀からは、こうした王国のあいだの接触や結びつきが生じていきます。その後、9世紀には、フランク族のなかでもきわめて強力な部族王国の首領が、「フランク諸族の大王」としていくつもの部族連合の推戴を受けて大きな王国の盟主となり、王国の名目上の版図は拡張していきます。フランク王国の名目的な版図が膨張していきます。西はピレネー山脈の西麓から、東はオーデル河、ボヘミア、クロアティアにまでいたる広大な空間でした。
ただし、原生林に覆われたヨーロッパで人間が居住するごく狭いエリアどうしを結ぶ、いわば孤島どうしを結ぶような希薄な関係からなる「王国」なのでした。
そのさいに、王国の権威を伝達し、その飛び抜けた軍事力=戦闘能力を見せつけたのが、騎士の集団でした。大王はときには自らその騎士団を率いて、あるいはそれぞれに家臣たちが率いる騎士団を派遣して、遠征活動をおこないました。とはいえ、決定的な戦闘になるのはまれで、だいたいは部族や侯国の臣従誓約を獲得するための示威行動でした。ごくたまに、あくまで「名目上の王への臣従・忠誠」を宣誓しない強情な部族や侯国を威嚇したり攻撃することはあったでしょう。
そのさい、王直属の騎士団や家臣団は、次々と遠征先の有力者たちから臣従誓約を得て回るのが当面の課題で、立ち寄ったところで統治制度をつくることはありませんでした。そんな意識すらもたなかったでしょう。
巡行する王やその家臣団あるいは使節の威光になびいて、侯国の長や大きな部族連合の首領(地方の王)が恭順や帰順の意を表しに来ることもあったでしょう。そうなれば、彼らが治めて権威をおよぼしている地域全体が、フランクの王に臣従したことになります。
まあ、そんなこんなで、名目上はとてつもなく広大な王国ができ上がります。シャルルマーニュ(カール大帝)の大王国です。