この記事の目次

はじめに

1 経済学批判体系の構想

イデオロギー批判の難しさ

《資本》の出版編集の来歴

考察の方法

経済学批判の全体構想

2《資本》に叙述され…

商品・貨幣論は世界市場を…

価値の源泉としての労働

認識の方法論の問題

権力構造としての価値法則

3〈資本の生産過程〉の仮定

純粋培養された資本主義

マルクスが目にした現実

〈資本の支配〉と生産過程

ソヴィエト・マルクシズム

重層的な〈資本の支配〉

4「資本の生産過程」の論理

剰余価値生産の2形態

絶対的剰余価値の生産

相対的剰余価値の生産

技術革新と産業革命

5 価値としての資本の運動

可変資本と不変資本…

価値形成と価値移転

生産管理の指標…原価計算

生産管理の指標…原価計算

7 労働価値説の理論史

国家と貿易

8「純粋培養」モデル…

共産党宣言

…〈世界市場的連関〉

「独占資本…金融資本」…

ローザ・ルクセンブルク

…マルクスの限界

9 世界市場的文脈で…

世界経済のヘゲモニー

世界市場とヘゲモニーの歴史

地中海世界経済

長い過渡期

考察視座の再確認

ヨーロッパ諸国家体系…

■世界市場とヘゲモニーの歴史■

  それでは、世界経済ヘゲモニーの歴史構造を追いかけてみよう。

地中海世界経済

  地中海地域では12世紀から14世紀に、すでに世界貿易システム(世界市場)が形成され、有力な商業諸都市(商人団体)のあいだで世界貿易におけるヘゲモニー(優位)をめぐる闘争が本格的に展開されていた。都市と商人団体は融合して、都市国家という独特の政治体=軍事的単位をなしていた。それゆえ、ヘゲモニー争いを繰り広げる主体は、北イタリアの有力な諸商業都市だった。
  それらは「都市国家」をなしていたという言い方ができるが、現代の「国家」とはまったく異なる――その先駆となるさまざまな装置や制度などの素材が出現していたが――組織だった。
  それゆえ、私たちは、世界経済での最優位やヘゲモニーの争奪戦について、国民国家どうしが角逐する18世紀以降とは、かなり異なる状況や様相を取り扱うことになる。
  ウォーラーステインは、この時代には世界経済の成立を認めていない。だが、私はのちのヨーロッパ世界経済の雛型として「地中海世界経済」が出現していたと見る。その意味は、以下の説明で理解してもらえると思う。

  そこでは、商業資本(グループ)のあいだの軍事的闘争をともなう競争や資本蓄積競争は、実在していた。遠距離貿易=世界市場での取引からより多くの利潤(貨幣形態での剰余価値)を引き出そうとする商業資本グループのあいだの競争や権力闘争が繰り広げられ、蓄えた利潤をふたたび経済活動や政治的・軍事的活動に投下=投資しようとするメカニズム――資本蓄積と拡大再生産――は、明白にはたらいていた。
  この世界市場競争=闘争に引き込まれ統合されていた主要な地域は、地中海沿岸のヨーロッパ、バルカン半島、北アフリカ、アナトリア、中東、黒海沿岸地方だった。それらの地方には、さまざまなレジームと生産様式・形態、経営様式が並存していた。
  それらを商業資本の貿易ネットワークが、全体として統一的な社会的分業体系に結合して社会的再生産を内的連関に絡めとり、単一のシステムに編合していた。
  そして、地方ごとの制約や障壁を超えた生産過程や流通過程が組織化されていた。たとえば、黒海沿岸ローマニアの穀物はジェーノヴァやヴェネツィアの商人によってイタリア各地方に運ばれ、有力都市の相当数の人口の再生産に役立っていた。また西南アジアから移植されてバルカン半島南部の諸地方で栽培された綿花は、北イタリア船団によって、これまた北イタリアやブルターニュ、あるいはドイツのライン地方などに持ち込まれ、精製されて織布の工程に投入された。綿布は、当時、超高級衣料・繊維として、ヨーロッパ各地の特権諸階級に売りさばかれた。
  イベリア半島や北アフリカで生産された羊毛も、北イタリアや南フランスの諸都市に持ち込まれて毛織物に加工された。これら羊毛繊維の生産(染色工程)には、黒海方面やアナトリアのミョウバンが原料の1つとして投入されていた。
  「国境」(国籍)という制度がどこにもない時代、まさに商人(団体)の資金力や交渉能力しだいで、原料の調達や生産工程などの諸段階は、商人たちが統制管理しやすい場所ならどこにでも配置・移植することができたのだ。
  というわけで、資本家主義的生産様式が支配的な経済システムにあっては、その生成当初から、生産過程の分析は単一の国家の単位(一国的規模)では成り立ちようがないということになる。「一国史観」は、のちにヨーロッパに多数の国民国家が形成され始めてからのイデオロギー=歴史観として、国家のエリートによって人為的につくり上げられたものである。

  この当時のイタリアの軍事的・政治的環境がどういうものであったかについては、『映画に乾杯!』サイトの記事「チェーザレとマキァヴェッリ」などにそこそこ詳しく書いてあるので、参照してほしい。北イタリア都市国家群のなかでのヘゲモニー争奪戦の模様についても。


  12世紀から15世紀まで、地中海世界経済ではヴェネツィアが総体として最優位を確保してきた。これに対抗していたのがジェーノヴァだった。
  あるいは局地的権力としては、そして金融的力量においては、ジェーノヴァの方がヴェネツィアに対して優位を見せつけた局面もしばしばあった。だが、ジェーノヴァは都市国家としての集合的権力の構築に失敗した。いや失敗というよりも、ジェーノヴァの支配層は恐ろしく自己中心的でバラバラで、自らを統治階級として凝集・組織化しようという意思を持たなかった。それぞれの商業資本グループが、地中海各地の自己の特権を排他的に独占して、同じジェーノヴァ出身の商人に対しても、特権構造を共通の公共財として利用することを峻拒していた。同胞どうしが激しく競争・敵対していた。本土での統治をめぐっても、それぞれの門閥家門が私兵団を組織して敵対していた。
  それゆえ、ジェーノヴァの商業資本は、個々にはすこぶる強力だったが、結集して集合的権力=ヘゲモニーを打ち立てることも、行使することもできなかった。
  ヴェネツィアは対照的だった。ヴェネツィア本国を中核とする共通の権力構造を組織化することに、大きな努力を注いでいた。そのヘゲモニー装置の特徴を見ておこう。
  ヴェネツィア政庁(多数の委員会の集合組織)は、特殊な門閥家門が頭抜けた富と権力を保有するのを厳しく牽制・抑制した。古くからヴェネツィア市内の居住権と市民権を保有する住民(人口の数%の寡頭支配層)の均質性を保持しようと努力した。だから、ヴェネツィアの世界貿易事業においても、特定の少数者への特権・利権の集中を禁じて、事業への投資機会をできるだけ平均化した。
  たとえば、ガレー船による冒険航海事業の計画にさいしては、政庁の委員会が監督して事業計画を立案させ、入札制度で出資者をできるだけ広範に募集した。手持ちの貨幣資本が少ない者には、ガレー船への乗り組みを現物出資の1形態として認めていた。そして、寄港地での特産物の買い付けと販売について共通の計画を立てて、ガレー船が本土に帰還してからの収益の分配でも――もちろん出資額に応じた多寡はあったが――平等な基準でおこなった。
  特定家門の権力者の台頭によって権力を拡張するよりも、支配集団の均質化で長期的に安定した権力ブロックを維持することに心を砕いたようだ。
  さて、この当時、地中海貿易での優位を確保するための通商拠点や軍事拠点を建設するさいには、一定の地理的範囲を「領土」として一円的=面状に支配するという仕組みも観念もなかった。通商や海運の優越を確保するためには、点のような局地的な要衝、拠点のネットワークを組織化した。これを、「交易拠点帝国: the trading post empire 」と呼ぶ。
  たとえば、キュプロス島やクレタ島では古い有力家門にヴェネツィア人が入り込んで貴族・領主身分を獲得し、現地の再生産体系を、ヴェネツィアの海運(軍船の運航でもある)や通商ネットワークに引き入れ、大きく依存するように仕向けていく。こうして、獲得した富と権力を土台に、現地での影響力=権力を拡大していく。そして、現地に古くからある統治組織そのものは、そのままの構造で維持していくのだ。
  こうして、各地での統治組織は表向きほとんど変化しないが、その生産や流通の仕組み――さらには軍事的防衛――がそっくりヴェネツィアの通商組織に依存=従属する仕組みをつくり上げる。
  こういう拠点が、黒海沿岸あるいはアナトリア、エーゲ海、シリア海岸の諸港や都市に続々と建設されていった。
  ヴェネツィア本土の政庁は、これらの地方のヴェネツィア系家門に本土の評議会や委員会の議席や役職を与えて、決定や諮問の会議への参加を義務づけた。海外拠点各地の有力者=代表からの意見や情報が、収益を上げるための冒険航海に材料を提供し、ジェーノヴァやフィレンツェとの通商的・軍事的対抗において有利な地歩を築くために利用されたことは言うまでもない。
  この公共秩序を優先する思考スタイルは、ヴェネツィアの都市建設=設計思想にも反映されている。サンマルコを中心とする整然とした建物や道路、運河の配置などに、その痕跡が残っているのだ。
  ヴェネツィアの通商権力に対抗している地方の君主権力に対しては、その弱体化を企図した。というのも、その地方の領主や貴族が所領の特産物をヴェネツィアの言いなりの値段や取引条件で売り渡すように仕向けるためだった。バルカン半島南部では、王権が弱体化するとともに従属的な農業(綿花やワイン用ブドウの栽培)が移植されていった。
  まるで、1980年代までのアジア、アフリカ、ラテンアメリカの低開発構造のような仕組みが、13〜15世紀の地中海各地に出現した。

  やがて、地中海貿易圏が北海=バルト海貿易圏やヨーロッパ内陸部と融合して、ヨーロッパ世界経済が形成される。これにともなって、ヨーロッパの貿易と製造業の中心がネーデルラントに移行する。そして、いくつもの有力な王権=領域国家――フランスやイングランド、エスパーニャなど――が出現して、北イタリア諸都市の地位が後退していく。
  イタリアはこれら有力諸王権の勢力争いの舞台となってしまった。
  その頃、ヴェネツィアは航海事業=貿易や金融から資本をしだいに引き上げて、内陸部の土地(所領=農地や都市域)の獲得=支配に資本を投下していくようになる。また、旧市域内では高級毛織物、絹織物、精密金属製品、ガラス工芸品、兵器などの製造業に特化していくようになる。
  もちろん、原料の供給や販売市場については、ネーデルラントやドイツ、イングランド、フランスの商人の貿易活動に依存=従属するようになっていく。

  さて、15世紀末に、エスパーニャ王権とフランス王権がイタリアでの争乱に本格的に介入すると、小規模な都市国家どうしの覇権争いで優位を確保していたヴェネツィアの優越を支えていた政治的・軍事的環境が構造転換してしまった。
  しかも、ポルトゥガルの冒険商人=航海者たちがアフリカを回航するインド洋への航路を開拓すると、アジアの香辛料や特産物の供給路――地中海東部からレヴァント方面・紅海・ペルシャ湾を経てインド洋にいたる交易路による――のヴェネツィアによる独占が崩れ去った。
  しかも、オスマントゥルコが地中海東部に軍事的権力を拡大したため、ヴェネツィアが確保していた貿易・軍事拠点が次々に奪われていった。
  こうして、16世紀はじめに、ヴェネツィアのヘゲモニーは没落した。

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