中世の音楽と近代への歩み その3
中世の音楽と近代への歩み 目次
数理哲学としての音楽
中世ヨーロッパの音楽
バッハと音楽理論
教会権力の装置としての音楽
近代への歩み

教会権力の装置としての音楽

  ところが神学理論は、神の祝福を「旋律に乗せた言葉」=歌唱によって民衆に伝達する聖歌隊の音楽――たとえばグレゴリオ聖歌――を重視して、信仰の言葉を含まない旋律=器楽を「声楽の侍女(はしため)」として扱っていた。
  というのも、ことに器楽は福音の言葉から独立して発達して、あまりに美しく楽しい旋律やリズムにまでいたることを強く警戒していたのだ。禁欲的原理からして、美しさにうっとりすることは禁じられていた。
  人びとが「神の言葉」を離れて感動し陶酔することを戒めていたわけだ。

  そういうこともあって、14〜15世紀頃までは音声の演奏といっても、人間の音声と言葉による心情表現や物語が中心で、器楽は添え物にすぎなかった。
  それゆえ、声楽そのものもひときわ美しい旋律をともなうまでには発達しなかったし、楽器の性能や音声効果を研究開発する動きは、むしろ抑制されていた。

近代への歩み

  しかし、16世紀から17世紀をつうじて、イタリアでは世俗的権力を謳歌する商業貴族の文化芸術が発展していった。
  これにともなって、イタリアでは世俗的権力を謳歌する商業貴族の文化芸術が発展していった。
  だが、イタリア・ルネサンスの時期には、素人の私からは、音楽は見るべきほどの発展を遂げなかったように見える。
  均衡・均整(プロポーション)と対称性(シンメトリー)を重視するルネサンスの自然主義的合理主義の発想は、その当時、強弱の誇張や揺らぎを方法論の中心とする音楽にはそれほど強い影響を及ぼさなかったように見える。

  むしろ、マニエリスモ――均整を崩すほどの誇張や反復、対称性の意図的な破壊や歪みを情感や感動の表現手段とする方法論――を経て、バロック時代(それも後半期以降)になって、音楽は目覚しい発展を経験する。
  イタリア都市国家を凌駕するフランスやエスパーニャ、ブリテン、オーストリアの王権が、宮廷の権力を豪華に飾り権威を誇示する手段として、オペラや器楽を利用するようになったことが背景にあるだろう。
  絶対王政の時代には、富裕貴族たちのサロンで音楽をBGMとして利用することになる。音楽は、もはや禁欲とはかけ離れ、威信と贅沢の誇示の手段となった。

  ローマ教会の厳格な自己抑制・禁欲主義の戒律を離脱し、かつまたルネサンス時代の静態的な均整や対称性の固定観念を突き崩した段階ではじめて、動的な旋律の美しさとか音楽のテーマ性(主題と周辺部、細部の仕組み)などが、芸術家たちの意識に上るようになったのではないか。

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