中世ヨーロッパ大陸内部の軍事的環境 1
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フランク大王国
重層騎士と領主制
ヨーロッパの軍事的再編
都市と農村
イタリアの事情

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フランク大王国

  ヨーロッパの海洋ないし沿海部の軍事的環境を見る前に、大陸内部の軍事的環境を一瞥しておこう。
  3世紀から5世紀まで、中央アジアでの諸民族の力関係と居住地の移動が玉突きのように影響 し合って、ヨーロッパの西端まで諸民族の大移動がおよんで、西ローマ帝国は崩壊した。
  ゲルマン諸民族のヨーロッパ各地への定住が始まると、各地の部族豪族の権力関係を基礎としていく つかの地方的な王国や侯国が形成された。
  8世紀から9世紀にはフランク族の有力君主の遠征活動をつうじて、名目上の広大な王国(帝 国)がつくり上げられた。フランクの王は直属の家臣を要衝に王の代官として派遣して伯に任じ、各地の豪族や有力者を公に任じて地方統治を委ねた。

重層騎士と領主制

  その頃、これまた中央アジアから始まった民族大移動によってマジャール諸族のヨーロッパへ の大規模な移動・侵入が断続的に繰り広げられた。
  フランク王はマジャール人の侵入・襲撃に対応して、各地の伯や公に重武装の騎士からなる軍備を命じた。重層騎士という軍事力は、訓練された戦士、甲冑と槍に加えて何頭もの大型の馬や馬丁、従者などを必要とした。
  王権は、各地の貴族・豪族やそれに臣従する騎士たちが各自でそのような武装を整えるための収入を得るために、彼らが統治する土地を所領として領有し家門で世襲する権利を認めた。フランク王は、その権利と引き換えに、王が要求する軍役地方領主が出仕することを義務づけた。
  これが、王侯領主や騎士のあいだの「封建法」の基本構造だった。
  重層騎兵の役割を担う戦士たちを地方領主とする制度は、西アジアやペルシャ帝国が起源だという。この制度はその後、蛮族侵入に対する辺境防衛のために東ローマ帝国やバルカン半島でも採用され、やがて西ヨーロッパでも普及する。
  はじめは騎士たちの武器は弓(弩)で、距離を置いて敵を攻撃する戦法だった。だが、西ヨー ロッパでは騎兵の武器は槍となり、槍を携えて敵陣営に攻め込む接近戦法が主流となった。当時、槍を抱えた重層騎士の群団の襲撃に対処できる武装はなかった。

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