ブリテン海軍とドイツ海軍戦艦ビスマルクとの戦闘は、歴史の流れのなかの1つのエピソードとして埋め込まれていった。
この海戦は、すでに見たように、歴史上、大鑑巨砲主義による艦隊決戦の最後の一幕に属す。
ビスマルクは、偶然の連鎖と運命の皮肉のなかに生まれ、そして北大西洋の底に没していった。
ここでは、この海戦を歴史的文脈のなかに位置づけるために、ヨーロッパの海洋権力の展開と海戦史を――ごくごく大雑把に――考察する。
というわけで、まずヨーロッパの海戦と「通商破壊」戦略の歴史的変遷について、概観しておこう。
「通商破壊」が海戦および艦隊の最も主要な戦略的目標として意識されるようになったのは、19世紀はじめの「ナポレオン戦争」の時代だという。これが、その世紀をつうじて練り上げられ、体系化され、やがて第1次世界戦争では本格的に通商破壊戦略が展開された。
ヨーロッパでの海洋権力( see power / Seemacht )の拡張競争は、通商=貿易をめぐる諸国家のあいだの闘争の主要な要素であって、海洋権力の競争はそもそものはじめから「通商破壊」だった。
それは、北イタリアと地中海では12世紀には本格的に始まっていた。地中海世界貿易における最も主要な交通運搬手段は船舶であって、地中海での北イタリア諸都市のあいだの通商戦争、ヘゲモニー争奪は、まさに船舶の武装能力と輸送能力の競い合いだった。
ユーラシア大陸の西端にあって、三方を海洋に囲まれた「半島」にすぎないヨーロッパでは、無数の半島や岬が海に突き出した入り組んだ地形で、内陸では(イベリア半島を除いて)豊かな水量をたたえた大河川やその支流が、おおむね緩やかな流速で流れていた。
陸上(内陸)の交通経路は、17世紀までは恐ろしいほど未整備で、しかもわずかばかりの貧弱な主要道路は、数百にもおよぶ領主たちの所領や都市の支配圏域によって、いたるところで軍事的・政治的に分断されていた。
政治的・軍事的分断の障壁ごとに税関があって、それらを通過するたびに通行税や関税を支払わされた。何度も高い税をむしられる割には、狭い道路の状態は悪く、商人の馬車や荷車が通行できるところはほんのわずかだった。コストとリスクの割には、運搬能力・輸送量はきわめて限られていた。
参照する⇒ヨーロッパ大陸内部の軍事的環境について
こうして、かさばる荷物をそれなりの量をまとめて、しかも速く輸送できる運搬・輸送手段は船舶に限られることになった。
それでも、12世紀の船舶・航海技術では、陸地から遠く離れることなく、ときおり陸地を見ながらの航海だった。大きな河口にある港湾は、交易の要衝としてはやくから発達していた。
そこで、船底が浅い小さな船舶に積み換えれば、ライン河やセーヌ河、エルベ川などの内陸河川に沿ってかなり遠くまで舟運の水上輸送ができた。
もっとも、沿岸海域や大河川による交易経路もまた、数多くの領主や都市の支配圏によって分断され、通航税や関税を課されていた。だが、障壁の数はずっと少なかったし、輸送量が陸上交通と比べて桁違いに大きかったから、単位量当たりのコストは圧倒的に小さかった。
こうして、中世後期からの遠距離貿易と各地の諸都市の発展は、船舶輸送の発達を土台とするものだった。そして、ヨーロッパ遠距離貿易の膨張は、各地の商人団体のあいだの、さらに諸都市(同盟団体)のあいだの闘争と競争をつうじて達成された。
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