有力武将どうしが争いが決着したようだ。殲滅攻撃が終わった戦場には、多数の死屍が累々と転がっていた。死んだ武士から金目のものを奪い取ろうとする夜盗がうろついていた。斃れた鎧武者から何かを盗み取ろうとしたその男に向かって、死体の下から刃が突き出された。
男はその攻撃を身軽にかわした。すると、地面から1人の若者が跳ね上がり、さらなる攻撃を加えようとした。その斬撃を止めて、夜盗は反撃を仕かけた。
それは、戦場の偵察にやって来た忍者どうしの闘争だった。勝負はつかず、一方が逃げ去った。逃げ去る男を見つめていたのは、主人公、石川五右衛門(市川雷蔵)だった。
五右衛門は、東海・北陸などの主要戦地を経めぐり偵察を続け、その結果、織田信長の優位と浅井・浅倉連合の劣位をを予想し、伊賀の里の首領、百知三太夫に浅井・浅倉側から伊賀忍群を引き上げるようはたらきかけていた。その読みが当たり、先頃の戦で百地党の忍者の被害はなかった。
戦国の世でも、武力闘争の傾向は、守護大名どうしの争いから戦国大名どうしの地方ごとの覇権闘争に移行し、さらに16世紀後半になると、それぞれの武将大名が分立割拠する情勢から、有力大名を盟主とする同盟を結んで天下を統一する局面に転換しつつあった。
1560年、織田信長は桶狭間に今川義元の大軍を打ち破った。
この頃から、戦国時代の終幕が始まり、戦国大名による闘争の局面が転換した。守護大名に代わって各地に割拠し「領国形成」を進める領主たちが、勢力範囲をめぐる闘争から、さらに何人かの有力君侯の周囲に領主同盟を結成して「王権国家形成」に向かおうとする局面になったのだ。その先頭に立っていたのが信長だった。
織田信長は、浅井長政・浅倉義景らの連合を破り、有力な仏教勢力を攻撃破砕して、いよいよ上洛を果たそうとしていた。
この状況に圧迫されていたのが、伊賀の忍者と民衆だった。彼らが属する仏教団体の抵抗運動は、絶対君主政を樹立しようとする信長の弾圧を受け、ついに殲滅戦に駆り立てられていた。
比叡山の僧兵も、信長の残虐な殲滅戦で壊滅させられていた。長島一向一揆も包囲網を敷かれ、最後の決戦が近づいていた。