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構造論的国家論について



生産様式と社会構成体

◆静態的な構築性を越えて◆

  ヨーロッパ中世晩期から世界市場的文脈のなかに位置づけて諸国家の形成史を考察した私の研究の視座から見て、たとえばニコス・プーランツァスのような構造論(構造主義)的な視座( structurist perspective )からの国家論をどのように見るのか。おそらくマルクス派の国家論に詳しい研究者からは、このような質問が寄せられるであろう。
  というのも、私のこの論文集では、内容はかなり組み換えてあるが、「権力ブロック」とか「諸階級の凝集」、「いくつもの生産諸様式の接合」などというようなプーランツァスを嚆矢とする構造論派が開発してきた用語(カテゴリー)や視角を用いて分析をおこなっているからだ。たしかに私の方法は、構造論的国家論から多くの材料を引き継いでいる。とはいえ、私の目的は、彼らのあたかも積み木細工のような《静態的な構造論》の限界を超え出て歴史的に動態的な認識を組み立てることにある。
  結論から端的に言うと、これまでの構造論的国家論は、資本主義的社会システムにおける国家についてきわめて静態的な構造を描き出しているが、国民国家の形成史を含む《歴史的動態における国家》を描き出すのには、プーランツァスが提示した方法は適さない――役に立たない――とうことになるだろう。そして、単一の国民国家によって総括された社会システムを意味する社会構成体の内部で自己完結するように描き出された国家の存在構造についてのイメイジは、世界システムとしての資本主義の内部で――ヒエラルヒー構造において――相互依存的に共存する複数の国民国家(国家群)の歴史的な動態を考察する方法をもちえていない。
  とはいえ、彼らの方法がどのような限界をもつのかを画定する必要はあるだろう。

◆世界システムとしての資本主義◆

  まず、構造論的国家論とはどういうものなのかが問題となる。ニコス・プーランツァスの理論を例にとって分析してみよう。難解な彼の叙述を要約すると、こういうことになる。
  社会構成体 formation sociale はさまざまな要素が複合的・重層的に組み合わされた体系をなしている。著書『資本』の第1巻第7篇「絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産」の部分でマルクスは「社会構成体 Gesellschaftsformation 」という語を「資本主義的生産様式が支配的な社会組織総体」という意味合いで用いているが、それは彼自身が述べているように、資本主義的な経済的再生産体系を観念的平均の像において描き出すために「総体としての商業世界(世界市場)を単一国民からなるもの仮定する」という抽象的な論理構成の次元においてのことである。
  すなわち社会構成体とは、その内部で諸国民国家への政治的=軍事的分割がない状態の世界経済総体を意味することになるはずだ。とすれば、社会構成体を国民社会と見なすためには、世界経済の多数の国民国家への政治的=軍事的分割をもたらす論理を媒介させなければならない。この点でフランスの構造論派国家論には決定的な不備と欠落があるということになる。
  経済的再生産体系において資本主義的生産様式が支配的な社会構成体のなかで諸階級を政治的に凝集させる政治権力の総体の仕組みが国家――この論理次元ではブルジョワ国家一般――である。この社会のなかでは資本主義的生産様式を中核として多様な諸制度や諸組織が組み合わされているが、国家は資本主義的生産様式が再生産されるように諸制度や諸組織の機能や運動を方向づけ、誘導し、組織化するということになる。
  そのような社会構成体のなかで国家は、制度的構造として経済的再生産の過程から相対的に自立しているが、諸階級の政治闘争の過程においても、支配階級の意識や利害から国家は相対的に自立化している。
  してみると、国家とは政治的支配ないし諸階級の政治的統合を担う諸装置の総体からなる構造(組織体)ということになるのだろう。ここまでの論理では、ブルジョワ国家一般 der bürgerliche Staat im Allgemeine が説明されただけであって、ブルジョワ国民国家 der bürgerliche Nationalstaat が説明されたわけではない。国家が特殊に国民的な形態で編成されている論理を導出しなければならない。
  ところが構造論派の国家論では、社会構成体とは国民国家によって政治的に総括された社会システムであって、国境制度や中央政府組織、軍事組織、警察組織、議会制度などをひとつの統一体(国家装置体系)に結合させ、経営者団体や労働組織を国家諸装置の周囲に組織化し、マスメディアや公教育制度などをつうじて人びとの意識への影響・作用をつうじて諸階級(域内住民)をひとつの国民として政治的に秩序づけ、組織化し、そうすることでひとつの集合体に凝集させている諸制度の束が国家なのだということになる。このような「凝集化」・「組織化」・「秩序への包摂」が不可欠となるのは、人びとが相互に利害が敵対し合う諸階級に分化しているからだ。つまり、諸階級をひとつの国民へと政治的に凝集化させる仕組みの総体が国家なのだ。
  こうして、論理構成からすれば、国家の存立根拠と組織化作用ないし運動は、国民的規模で自己完結したものとして提示されることになる。だが、資本主義的な経済的再生産は、その発生以来(中世晩期からこの方)、国境を超えた体系として組織化され、展開している。プーランツァスが社会構成体と呼んでいるものは、世界経済のなかで一定の地理的範囲の住民・社会関係が国民国家という制度的構造をつうじて政治的に総括されることで形成されたものだ。とすれば、彼が国家という上部構造を導き出すための前提=基礎となっている社会構成体が、じつは国民国家の存在と作用――つまり政治的総括作用――を前提していることになり、論理的な破綻が生じていることになる。
  社会構成体とは、マルクスの『資本』では、多数の諸国家への分割がないという抽象的な次元において描かれた世界システムとしての資本主義、つまり世界経済にほかならない。
  結局のところ、彼の方法論は「一国史観」「一国社会観」によって根底から拘束されているということになる。国家がなぜ、いかにして国民的枠組みにおいて――そして国民というイデオロギー状態で――形成されているのかについては「自明の所与」として全く説明もなしに前提されているのだけなのだ。そうなると、社会構成体なるものは国民的規模で完結した構造だから、構造論派は「国家一般 der Staat im Allgenaine 」を説明するだけでしかないのに、あたかも国民国家を説明したかのような外観を取る繕うことになるわけだ。論理的に破綻しているということになる。
  プーランツァスによれば、資本主義的社会構成体は資本主義的生産様式が支配的な社会的再生産の体系をなすものとされているが、それは世界経済次元ではじめてひとつの自律的なシステムとなるのであって、その非自立的な断片としての国民国家を自己完結的で自律的なシステムとして把握することはできないのだ。

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