第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

4 本国政府・議会の状況と商業資本の分派間闘争
      (1650―1720年)

  ブリテン東インド会社は急速に成長し、それが保有する権益も膨張した。イングランドでは巨大化した会社の権益には参入をもくろむ商人たちが群がり参入を追求したが、会社の独占体制の壁にはばまれると、王位継承にともなう王権政府の混乱につけ入って競争会社を立ち上げた。

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

  さて、会社の権力の膨張は、人員の膨張だけでなく、ロンドン本部社屋の巨大化にも現れた。発足当初はたった3部屋しかなかった本社オフィスは、その後、大邸宅グロスビーハウスに移転し、1648年には会社がリーデンホール街に建設した巨大な建物に置かれるようになった。この建物は、本部事務所と税関を併設していた。   その頃には、会社の船舶を建造してきたドックと造船工場は経営権を別会社に売り渡されていた。ロンドンの本社幹部の主要な任務の1つは、世界で最も豪華な船団を編成することであって、まさに世界的規模での人員の配置と財貨の移動、給料の支払いを組織化していた。17世紀末の時点で、会社の従業員の職務の階級は、見習い(1694年まで)、書記、代理商(仲買人)、商業事務助手、主任商業事務員(筆頭代理商)、駐在弁務官、参事、総督(長官)、そのほか牧師、医師、職人などとなっていた〔cf. Gardner〕
  会社にとっては、船団が運ぶ積荷の購入の指示などのほかに、各地で従業員が独自におこなっている私的な取引きをどのように統制するかという難問があった。会社は、それまでにも何度も会社の統制を逃れた従業員の私的な取引きを禁止しようと試みたが、成功したためしがなかった。というよりも、会社の保有する利権や権威を利用して一山当てようとする挑戦者たちが、従業員として入り込んできていて、それが他面では会社の活力を再生産していたのだ。インドでの会社の権力と利権の拡張は、こうした私的な利益衝動によって推進され、また乱されてもいたのだ。

  国策会社 Staatspolitische Unternehmen でもある特許会社は、世界市場をめぐる権力闘争の有力な手段であった。「17世紀第2四半期頃の会社の目標は、極東で新たな市場を探索するとともに、会社を強化することだった〔cf. Gardner〕」。共和政を指導するオリヴァー・クロムウェルは、インド洋方面におけるネーデルラントの優位を突き崩すために、会社にテコ入れをした。1657年にはクロムウェルが、1609年に定められた会社の特許権を更新し、イングランドの貿易戦争をより系統的に進めるため、会社の独占権を拡大した。そして、1657年から63年のあいだ、西アフリカのイングランド艦隊の基地を会社の船舶の寄港地として使用することを許可した。

  ただし、共和政期には、中央政府に商人団体の利害を反映させる国家装置が機能しなかったこともあって、会社は中央政府の統制からの独立性を拡大したようだ。王政復古のあと、ステュアート家の王たちは会社に好意的だった。1670年には王チャールズ2世と議会が会社の権力を拡大して、領地の併合の自由、通貨鋳造権、王の直属軍事装置としての要塞と兵員についての指揮権、同盟締結の自由、戦争と講和の権限、支配地における私法上および刑法上の裁判権を承認した。   このような権力を基盤として、会社は競争相手およびインドでの敵対勢力との闘争に備えて、1670年代に急速に軍事力を拡大していった。1689年までには、ベンガル地方、マドラース地方、ボンベイで独立の政治的・軍事的単位として振る舞うようになった。その統治は、「イングランドの王と議会の支援のもとに auspico regis et senatus angliae 」という文言で正当化された。

  この時期には、会社にとって中央政府ならびに議会との関係は概して良好だった。だが、イングランド(ロンドン)商業資本の内部の利害対立を背景に、会社の権益の拡大と財政状態は、国家装置ないし統治階級の周囲で権力闘争と紛糾の源泉になっていった。
  会社は17世紀末頃に高利回りの配当をした。だが、貿易による利潤がイングランド製品の輸出ではなくアジア産品の再輸出によるもので、買付け入超代金決済のために貴金属の持ち出しの結果であることが明らかだった。そのため、一般に経済界の評判は芳しくなかったし、会社の利益分配に関与できない一般商人からの嫉妬と反発を招いた。利権の維持のためにかかるコストは、利権の果実の分配にあずからない部外者から見れば、不当なものと評価されるのは当然だった。会社が恒常的な経営組織になって以来の対インド・アジア貿易をめぐる会社の根本的弱点は、17世紀末になっても解消されなかった。これが1つ目の問題だった。
  会社の取引をめぐる貿易収支は、相変わらず輸入超過で、イングランドは毎年多額の貴金属をインドにもち出し、国内の富裕層は香辛料やインドの瀟洒な繊維製品に多額の支出をしていた。それでも、イングランドやヨーロッパ、アメリカ植民地で、インド洋方面や極東で買い入れたアジア物産を販売すれば莫大な利潤を獲得できた。
  会社とインドとの取引きでは収支は赤字だったが、世界貿易全体としては巨額の黒字の源泉となっていたのだ。
  巨大な利権と冒険的利得の機会に魅いれられて、野心に富む若年者たちが会社――従業員や軍人――に志願してきた。貴族家系の二、三男や庶子、ジェントリや富裕商人の縁者などが採用された。そして、インドに赴任した者たちは、幸運に恵まれ疫病や戦乱の危険を生き延びれば、数万ポンドの巨額の富を獲得して故国に凱旋することができた。「インド成金」のエリート nabob には、会社と王への貢献の見返りとして、蓄えた資金で土地(所領)を購入してジェントリの仲間に加わり、ついには庶民院への登壇や貴族院への上昇(叙爵)への道が用意されていた。議会に席をもつ nabob たちの多くは、会社のロビイとなった。インド成金という羨望と蔑視を相半ばして含んだ呼称には、むしろ類まれな成功と身分的・社会的地位の上昇の速さに対する驚異が込められていると言えるだろう。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社