第3章 ブリテン東インド会社

この章の目次

商業資本の世界市場運動としてのBEIC

1 特許会社とヨーロッパ諸国民の通商戦争

ⅰ 冒険航海事業の創設と初期の航海事業

ⅱ 恒常的経営組織への転換

ⅲ アジア貿易をめぐる西欧諸国民の闘争

2 インド亜大陸の統治構造と社会

3 BEICの通商拠点建設と商業権益の獲得

ⅰ マドラース、ボンベイ、カルカッタの獲得

ⅱ アジア域内貿易とイングランド商人

ⅲ 綿織物貿易とカーナティク

4 本国政府・議会と商業資本の分派間闘争

ⅰ 会社の急成長と政府・議会との関係

ⅱ もう1つの東インド会社の出現

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

ⅲ 会社の経営状態と入超問題

  その頃、会社が取引きする主要産物は、原綿、茶、絹、インディゴ、硝石などだった。このうち、原綿は主として中国に輸出され、茶の買付け代金の一部を補填していた。また、 BEIC は東南アジアでは、 VOC の独占する香辛料貿易に食い込むための挑戦を続けていた。
  この局面では、 BEIC がアジアの経済的剰余を収奪するという貿易構造は成立していなかった。その貿易の仕組みは、胡椒・香辛料、茶、絹、陶器などの奢侈品や希少品を直接にアジアで買い付けて(または仲介商人をつうじて調達して)ヨーロッパに持ち帰り、すこぶる高額で――つまり通常の価格体系とは独立に――販売(再輸出)して、ヨーロッパにおける剰余価値の再分配競争で優位を得ることによって巨額の利潤を獲得する、という構造だった。
  つまり、アジアで貴金属を放出して、ヨーロッパでの剰余価値の再分配のために販売する特殊な商品を買付けに回るという状況だった。ヨーロッパ諸国家の特許会社(商業資本諸団体)は、この調達市場=機会をめぐって争っていた。そのような文脈では、BEICもまた、対アジア貿易収支としては巨額の赤字続きという「経営上の欠陥」は免れようがなかった。

  とはいえ、それは会社の財政危機ではなく、このような構造の資本蓄積にともなう不可分の事象だった。会社はヨーロッパやアメリカ大陸植民地での販売によって、会社は巨額の利潤を確保していた。というのも、会社はイングランド王権によってアジア産品の販売の独占権を保証されていたため、ブリテン諸島と北アメリカ植民地の販売市場を独占していたからだ。
  してみれば、この赤字は、経営の危機を引き寄せるといった事柄ではなかった。資金循環としては、ヨーロッパあるいは植民地で獲得してすでに保有している剰余価値(貴金属塊)のうち幾分かを「購入原価」としてアジアでの買付けに回し、その何倍もの剰余価値をヨーロッパとアメリカの市場で収取するという仕組みだった。
  とはいえ、「国内により多くの貴金属を集積すること」を直接の目標とする重商主義的思想の立場からは、輸入超過による赤字は深刻な問題と考えられていた。インドのアジアへ貴金属の流出は、議会や経済界での会社への批判や攻撃の恰好の材料となったと。いうのも、ヨーロッパ諸国家の対抗のなかで戦争が起きると、政府の出費は膨大なものとなり、国庫に蓄えられた貴金属はまたたくまに激減してしまうのが、常態だったからだ。

◆海洋権力と貿易独占◆

  ここで、イングランド東インド会社を含めたブリテン国家と商業資本が世界市場競争で優位を獲得するために構築した仕組み――ブリテン王国の航海諸法体制、王国海軍、特許会社が連携して形成した権力装置――を瞥見しておこう。会社の貿易独占権や権益・利権がどのような仕組みにもとづいていたのかを見るために。

  東インド会社などの貿易特許会社は、商取引の独占権を認められている海外諸地域から買い付けた特産物――たとえばアジア産の木綿や絹などの繊維品、陶器、香辛料、茶など――を船舶でブリテン本国に持ち帰ったのち、本国や属領、植民地で売りさばくこともあれば、ヨーロッパ諸国、さらにはそれらの海外植民地に再輸出して販売することもあった。アジア産特産物の多くは特権階級による購買と消費に向けられた、高額(独占価格)の奢侈品だったが、その販売価格には高率の輸出入関税がかけられていた。
  利潤率のきわめて高いこれらの商品の輸出や販売をめぐっては、ポルトゥガルやネーデルラント、フランスなどの競争相手がいて、互いに市場占有率を競っていた。ところが、17世紀後半から、イングランド国家は自国商業資本の優位を確保し、競争相手の優位を掘り崩すためすこぶる攻撃的な施策や仕組みを構築していった。それが、航海諸法体制だ。

  ピュアリタン革命から名誉革命を経て18世紀前半までにイングランドは、世界貿易による利潤を極大化する仕組みの土台を築き上げた。17世紀半ばから、イングランド王権は航海法を何度も発令してブリテン海軍が優位を確保している海域において、ほかのヨーロッパ諸国民が営む世界貿易を統制し、彼らが獲得した利潤のうちのかなりの部分をイングランドの経済収益や財政収入に取り込もうとした。
  航海法は、イングランド海軍が制海権をおよぼしている海域では、諸外国の船舶や海運業者、貿易業者に対して、①必ずイングランドの諸港に寄港して積み荷の検査を受けてしかるべき関税を支払うこと、さもなくば、②商品の輸送業務をイングランド籍の海運業者または船舶に全面的に委託することを強制した。公海を航行する外国船舶に対してブリテン海軍は力づくの臨検や査察をおこなって、積み荷の重量や価格に応じた税ないし賦課金の支払いを求めた。それを嫌って逃走したり反撃したりする船舶は敵対的な私掠戦船(海賊)または密貿易業者と見なして、イングランド軍船は海戦を仕かけて拿捕し、積み荷を没収し、ときには船舶を破壊して沈没させた――乗組員たちは捕虜として本国や海軍基地に連行、収監した。
  ひとたびイングランドの港湾に入航すれば高額の港湾使用料(入港料)を支払わせ、ほとんどの場合にイングランド籍の船舶への貨物の積み換えを求め、同意しなければ、「イングランドの領土・領海に入ってから出る以上は」ということでこれまた高率の輸出入関税を課した。外国海運に対する関税はあまりに高率で、そうなるともはやイングランド籍の船舶を利用した方が割安ということになった。
  ヨーロッパ貿易あるいはアメリカ大陸植民地との貿易のために北太平洋・北海を経由して往来するヨーロッパ諸国の船舶は、イングランド海軍――王権から特許状を受けた私掠船も含む――の権力がおよぶ限り、このような厳しい制約を課された。18世紀にネーデルラントを押しのけて地中海の制海権をイングランドが掌握すると、船舶貿易・海運に対する航海諸法による束縛は地中海にも拡大した。
  こうして、イングランド艦隊の存在がおよぶ限りで、ヨーロッパ諸国の商品の世界市場での価格競争力(比較優位)は全面的に奪われてしまった。
  このような仕組みは、少なくともフランス革命とナポレオン戦争の終結まで続いた。
  東インド会社の――とりわけ外国の商事会社と植民地に対する――貿易独占体制は、ブリテン海軍の海洋権力と制海圏域が広がるにつれて、より強固なものになった。

  この仕組みが東インド会社などの特許貿易会社の貿易活動や貿易独占体制をも強力に支援したことは言うまでもない。それはとりわけ、北アメリカ植民地との貿易に当てはまる。ボストン港に荷揚げされる東インド会社のアジア産茶こそは、イングランド政府と商業資本が結託した貿易独占体制の典型的な象徴だった。それゆえにこそ、北アメリカ植民地の独立闘争では、ボストン港に入港した東インド会社の船舶の茶の襲撃強奪(ボストン港茶会事件)が独立革命闘争の象徴となったのだ。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第2篇
 商業資本の世界市場運動と国民国家

◆全体目次 章と節◆

第1章
 17世紀末から19世紀までの世界経済

第2章
 世界経済とイングランド国民国家

第3章
 ブリテン東インド会社