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あらすじ
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戦争史・軍事史…第2次世界戦争勃発の経緯を描いた作品
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空軍大戦略

物語のエポック

■1930年代後半■
  1929年の世界恐慌から始まった1930年代の世界経済の深刻な危機のなかで、ヨーロッパやアメリカ諸国家は経済への国家(中央政府)の介入を強めていった。とにかく、他国を犠牲にしても、あるいは収奪しても、自国だけは経済を復興させ、軍備を拡大して、国際的地位を高めようという方向で動いていた。その結果が、排他的なブロック経済、軍拡競争、そしてイタリアでのファシスト政権、ドイツでのナチス政権の出現だった。
  それまで分権的・分散的だった合州国では、ルーズベルト政権が連邦全域への中央政府の統制を強化し、インフラストラクチャー建設を整備しながら、有力寡占企業の支配や権力の拡張を支援していった。その典型は、軍産複合体の形成だった。これによって、1930年代後半、アメリカは未曾有の経済成長への道をようやく歩み始めた。

  ソ連では、1917年から20年代の強硬な「社会主義革命〈国有化・国営化と統制)」は行き詰まり、20年代後半から「新経済政策(独特の市場システム)」によって、何とか破局を回避し、30年から国営企業中心の急速な経済成長が始まった。
  ほとんど工業化の基礎がなかったために、工業と都市経済のインフラ建設の需要が、当面、きわめて大きかったからだった。そして、外国貿易の国家独占によって世界市場との関係を厳格に統制して、域内指向の経済建設を進めた。
  経済では「自由化」と成長が見られたが、政治的にはスターリンの独裁レジームが強化されていった。だが、レジーム維持のための国際的環境をつくりだすために、またナチスドイツの圧力を分散させるために、ソ連が指導するコミンテルンは1936年、国際的連帯路線を採用し、「反ファシズム統一戦線」綱領を打ち出した。
  ソ連国内では共産党と国家が主導する文化芸術活動の活性化が追及された。政府と党に反対・異議申し立てする知識人・芸術家をシベリア流刑にしたが、この抑圧手法は、ロマノフ王朝帝政以来の「伝統」だった。国家装置・レジームの抑圧性という構造では、ロシア帝国とソヴィエトは完全に連続している。

■1940年代■
  ヨーロッパとアメリカは第2次世界戦争に突入した。
  だが、全体としてヨーロッパは、第2次世界戦争の前夜で、ナチスドイツの軍備拡張、ファシズムイタリアの対外膨張の圧力はとどまることはなかった。覇権国家ブリテンは、ナチスドイツの膨張圧力が社会主義ソ連に向かうことを期待していたため、ドイツの軍事的冒険を抑制・阻止する動きを取らなかった。
  ついに1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻。フランスとブリテンは、同盟条約にしたがってドイツに宣戦した。一方、ソ連はドイツに対抗して、東部からポーランドに侵攻して、間近に迫ったナチスの攻撃に備えた。ドイツはソ連と「かりそめの平和協定」を結ぶと、攻撃の矛先を西側に向けた。40年には、ドイツ軍はネーデルラントとベルギーを制圧し、パリをも占領した。
  フランスを支配したナチスは、本国同様に、「ユダヤ人狩り」を繰り広げる。ユダヤ人を強制隔離してドイツや東欧の強制収容所に送り込んだ。そして、彼らの莫大な財産を没収して、戦争財政に投入していった。フランス各地、ことにパリでは、ドイツ軍に媚を売って利権にありつこうとする輩と抵抗する勢力とに市民が分裂した。

  だが、狂気に奔るヒトラーに、内心、嫌悪感や疑念を抱くドイツ人もいた。だが、戦争に協力しなければ、抑圧と死が待っていたから、多くのドイツ人は戦場に赴き、ナチスの権威の伝達や鼓舞に手を貸すしかなかった。
  西ヨーロッパを制圧したドイツは、ふたたび攻勢の前線をソ連・東欧に向けた。戦車・機甲軍団を尖兵として、ドイツ軍はウクライナ、ロシアの平原を東漸し、ソ連の諸都市を攻略していった。

  スターリンはソ連の民衆をイデオロギーと強制とによって鼓舞して、過酷な戦争と耐乏生活に駆り立てていった。そのかいあって、1942年からの反転攻勢は成功して、ドイツ軍の戦線を西に押し返していった。
  アメリカも西ヨーロッパとソ連に同盟して、ヨーロッパ戦線に膨大な物資・財政支援と兵員を送り込んでいった。ついに1945年初夏から、西ヨーロッパの軍事的解放が敢行された。ノルマンディ、ネーデルラント、パリ、そしてドイツ(ベルリン)へと連合軍の支配地は拡大していった。
  こうして、膨大な犠牲と苦悩、破壊と荒廃をあとに残して、世界戦争は終結した。

  主戦場となったヨーロッパとソ連では、荒廃と廃墟のなかから復興と再建への道が始まった。一方、本土が無傷のアメリカは、ヨーロッパと世界に対して圧倒的な優位を得た。戦争中に政治的・産業的優越(権力)を手に入れた軍産複合体が主導する、未曾有の経済成長(産業文明)が展開し、それによって蓄積・集積された金融資本がアメリカ主導の世界経済の構造化のために「援助資金」として投入された。
  だが、連合軍の勝利の宣言の瞬間から、冷静構造とイデオロギーは顕在化した。対立する極は、アメリカの軍産複合体とソ連の軍政複合体だった。



■1960年代■
  アメリカのヘゲモニーは、かつて海外植民地帝国を構築していた旧ヨーロッパの諸強国に、古い植民地支配構造からの脱却と新たな形態での世界市場支配への道を強制した。
  この趨勢に最後まで抵抗したのがドゥゴールのフランス共和国だった。
  フランス内部でも、古めかしい権威にしがみつこうとする勢力と新たなレジームへの再編をめざす勢力とに分裂した。とりわけ、北アフリカ=アルジェリアの独立をめぐって、世論と外交・軍事政策は分裂していた。やがて、アルジェリアの独立闘争や反乱が起きた。
参照記事⇒「ジャッカルの日」

  結局、フランスはアルジェリアの独立を承認して、新たな国際的レジームを受け入れた。アルジェに送られていた兵員(若者たち)は混乱のうちに帰国した。そして、彼らはヨーロッパの経済成長の波に乗って、自分たちのキャリアを築いていこうとする。
  だが、物質的な豊かさの背後で、精神的・心理的な抑鬱という社会的・個人的な病理が蔓延していった。「先進諸国」の社会では「豊かな社会」の病理が目立っていく。そして1968年、「パリ革命」と呼ばれる学生・民衆の大規模な抵抗運動が発生し、ドゥゴール政権は崩壊。

  冷戦(レジーム間競争)でのアメリカ「自由陣営」の優越が明白化していく。
  とりわけ、ソ連・東欧は世界市場に復帰したのち、それまでの兵営型国家管理による経済建設の「歪み=いびつさ」が顕在化し、経済の国家間競争では次々に敗北していった。社会主義レジームの危機は恒常化し、その分、政府や国家装置による監視や抑圧が目につくようになった。
  ソ連社会の文化エリート(芸術家や知識人たち)の、逃走・亡命が頻発するようになった。
皮肉なことに、ロシア革命後のロシア貴族の大量亡命と、冷戦下での亡命によって、西側世界に拡散したロシア貴族・知識人の秀逸な文化や芸術の方法論は、壁にぶつかっていた西側の文化・芸術を活性化することに役だった。

■1970年代から80年代■
  冷戦構造の行き詰まりのなかから「デタント(敵対の緩和)」が提起された。
  というよりも、ソ連・東欧レジームでは、ひどい財政・経済危機のなかで、軍事力拡大の袋小路に追いつめられたのだ。西ヨーロッパには、東欧に対する圧倒的な経済的優位のなかで、ヨーロッパでの緊張緩和が模索された。
  ヨーロッパでは、東西格差や南北格差、貧困・社会問題への取り組みが課題となった。地球的な課題をめぐって、芸術家たちの連帯が求められるようになった。

  ところが、この世界融和への動きは、アメリカでのレイガン政権、ブリテンでのサッチャー政権の誕生とともに展開された超保守的なソ連封じ込め政策によって、冷戦構造は再編強化され、結局、ソ連東方の経済の崩壊、レジームの解体へと進むことになった。

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