国家形成史における世界市場的文脈と階級構造 2

冒頭

階級論的文脈における国家形成

遠距離貿易と都市権力の成長

都市の階級構造

都市の階級闘争

北ドイツ諸都市の領域主義

領域主義と政治体の生存闘争

北西ヨーロッパ

世界市場的文脈と階級構造

■■都市の階級構造■■

  都市国家の内部では、遠距離貿易商人とこれに関連する商人諸階級のすぐ下には、同じ中心都市の内部や周囲の諸都市にあって、地場産業の生産物を集めて遠距離貿易商人に引き渡す二流どころの役割を演じる仲買商人階級がいた。その下には、何とか自前の店舗を保有する中小規模の小売商人階級がいた。
  職匠工房の経営者、すなわち自分の工房を所有し複数の職人労働者を使用する親方たちは、この階級の上層を占めていた。職匠工房のなかには、高級毛織物や絹織物の製造に携わる数十人以上の賃金労働者を雇用する大マニュファクチャーがあった。職人労働者層は、親方の指示命令に従わなければならなかったが、熟練技能をもち各自の工程では自立的な作業を営む労働者で、彼らは数人の徒弟や見習いを指導していた。
  北イタリア諸都市では14世紀に、ネーデルラント諸都市では16世紀に、富裕商人や都市団体の豪勢な注文に応じて建築や絵画、彫刻、貴金属工芸、高級服飾製造を営む職匠工房があった。
  市街の店舗のほとんどは参事会に席を占める富裕商人層の所有に属していて、零細職人や零細小売商人は店舗を賃借りして生計を立てていた。青空市場の売り場区画さえ、都市団体や有力商人の所有物で、露天商たちは日極めや定期で借りて商売を営んでいた。彼らは従属的な立場の小売専門の商人だったが、ともかくも固定した売り場を維持していた。この階層の下には最下層の商人、というよりも商業プロレタリアートとして、担い売り商人がいた。
  ここまでは、なんとか都市の居住者として扱われていた諸階級だったが、最底辺には、近隣の都市集落や農村から流れ込んだ最貧のプロレタリアートや物乞いがいた。これらの下層諸階級は、ある程度の人口規模をもつ有力な都市だけに限られていた。というのは、担い売りやプロレタリアートは、ある程度以上の人口があり、またとてつもなく裕福な階層が集まっているために過剰に消費物資を引きつける力がある大都市でしか、生きる手段と機会が恵まれないからであった。

  商人が指導する経営体には手代、助手、見習いなどがいた。また、富裕商人の家庭には、家令・執事や園丁、料理人、家政婦などの使用人がいた。この傾向は、地中海地方の諸都市でことのほか強かった。このほか、都市門閥層が指導する都市団体、つまり参事会・政庁とその行財政機関に雇用される人員は、都市の成長および商人勢力の台頭とともに、しだいに増加していった。市参事会の書記や法律顧問、一般吏員や助手、見習いなどがいた。このほか、有力都市には裁判所が置かれていて、判事や書記、執達吏などがいた。
  有力な諸都市では、書記や法律顧問、判事などにリクルートされるのは、大学などで専門教育を受けられるだけの経済的余裕に恵まれた階層の出身者に限られるがゆえに、門閥家系や有力商人の子弟、縁者が圧倒的に多かった。してみれば、都市の政府組織・行財政機関は必然的に富裕商人階級とよく似た利害意識を抱くようになったであろう。もとより、都市団体の諸装置を政治的に指揮・指導していたのは、門閥商人の家系のメンバーだった。
  さらに、商人団体や都市団体が、遠隔地への航海や旅行、輸送などをともなう商業活動そのものの安全や都市の軍事的防衛のために雇った軍事顧問や傭兵、警吏たちがいた。

  司教座が置かれた諸都市や聖堂が置かれた諸都市には、人口の数%から十数%におよぶ聖職者がいた。大司教ならびに司教職は上級貴族と同格で、その多くは実際に伯以上の爵位をもち、広大な所領を経営していた。彼らの多くは有力な武門貴族や商業貴族の家系の出身だったから、世俗の権力体系と密接に結びついていた。
  教会と修道院の組織は独特の統治装置で、司教の下に多くの職階が置かれた階級組織だった。教会や修道院の役員の奢侈欲求や宗教儀式や行事に用いる器具、また建築物としての寺院・聖堂や修道院、そしてその装飾物は都市の職匠工房や芸術家に大きな需要を供していた。
  このような階級構造は、13世紀から16世紀のヨーロッパ全域の都市部にだいたい共通のものだったが、人口の規模からいってきたイタリア諸都市にとりわけ顕著だった。

■■都市の階級闘争■■

  都市は階級格差と優劣のはっきりした社会空間だったから、とりわけ下層諸階級の不満や憤懣は飢饉にともなう食料逼迫やその価格の暴騰などの危機的状況が深化すれば、ときに爆発した。こうした暴動や騒乱は、ときに有力諸階級の内部の利権闘争や派閥闘争に随伴して発生することもあった。あるいは、統治階級のある分派が反対派を追いつめたり、威嚇したりするための手段として、下層民を煽動することで反乱や争議が生じることもあった。いずれにせよ下層諸階級の蜂起による破壊や掠奪、放火などの事件はしばしば発生した。
  だが、たいていそれらは狭い地区の内部で完結した素朴で粗暴な反乱や異議申し立てにすぎなかった。下層民衆が置かれた地位に規定された視野の狭さやアクセスできる情報の限界からしても、これらの反乱や蜂起のほとんどすべてが明確な政治的目標を打ち立てることができないのは、当然だった。
  それでも、都市の統治階級や支配層は、幾多の都市下層民衆の騒乱の経験から、主としてこうした暴動の発生を予防するために(副次的に宗教的ないしは倫理的立場から)、食料の安定供給や救恤のための政策を行なった。
  そのような政策としては、都市の領域的支配の近隣農村への拡大や遠隔地との穀物貿易のより系統的な組織化だった。とりわけ、都市が周囲の農村地帯への政治的・軍事的支配を強化し、それらを食糧供給地として排他的に囲い込もうとする傾向がしだいに顕著になっていった。

  北イタリアでは都市の権力や支配空間が膨張するにつれて、都市内でいくつもの有力門閥家系(派閥)のあいだで政庁への影響力をめぐる権力闘争が激化していった。とりわけ権力闘争・勢力争いが熾烈だったのは、ジェーノヴァだった。それほどではないが、ミラーノやフィレンツェでも門閥家門間の勢力争いや派閥闘争は熾烈だった。
  このような権力争いに政治参加――都市統治への利害の反映――を求める中下層民衆の運動や不満・憤懣が絡みついて、争乱や蜂起がしばしば発生した。都市政庁や参事会、各種の委員会は、門閥の突出を抑制するための制度を試行錯誤的に創設した。そして、しだいに政庁を指導する門閥家門が君主権力とよく似た権威や影響力を獲得していった。門閥どうしの勢力争いによる都市統治の混乱を回避するために、そのような疑似君主政が有力諸階級や中下層民衆のあいだで支持されるようになっていった。
  おりしも、北イタリアでは、有力都市は周囲の中小諸都市や農村を排他的に支配するレジーム、つまり都市国家が確立され、都市国家のあいだの政治的にして軍事的な闘争が熾烈化していた。だから、行財政権力や軍事力を一元的に掌握するレジームが避けられなかったのだ。

  ところがヴェネツィアでは、経済的に支配的な諸階級や有力家門が相互に牽制し合い、突出した権威や影響力をもつ勢力や派閥が出現しないようにしていた。そこでは、政庁各機関の運営や意思決定をめぐって、多様な委員会組織をつうじて相互牽制し、監視し合う仕組みが機能していた。都市政庁は、遠距離貿易航海の事業や日常の貿易活動にも細部にわたって介入し、市民階層の間での投資機会や貿易機会の均等化を試みてきていた。つまり、富裕商人階級の共和政が確立されていて、集権的な都市統治が組織されていたのだ。

|前のペイジへ||次のペイジへ|