ここでは、映画《炎のランナー》が映画いた物語の社会史的背景について考察します。
当時の支配装置ないしは権力構造としてのスポーツを描き出してみようと試みます。「本論」では書ききれなかった事柄について、補足する内容です。
この物語を理解するためには、まず何よりも、1920年代までのヨーロッパでは、スポーツというものはスーパーエリートだけのものであって、彼らの余暇・余技として営まれていたという社会状況を押さえておかなければならない。
この時代、莫大な資産や権力を保有する家系の出身者たちだけが、競技として意味のあるスポーツを楽しんでいた。
だから、「近代オリンピック」の創始者、クーベルタンの言葉は、そのような文脈で理解しなければならない。クーベルタン自身、有力貴族で一般庶民には手が届かない「はるかに高い地位」に立っていたことを、まず確認しておこう。
「参加することに意義がある」とはいえ、そもそも、スーパーエリートの世界の行事に参加するだけでも、一般民衆にとってはほとんど可能性のない「雲の上の世界」のできごとなのだ。
国際的クラスのスポーツ競技に参加できるということ自体、飛び抜けた栄誉、権威、威信を意味したのだ。
そもそも、はじめのうちは国内予選からオリンピック本大会まで、旅費や宿泊・滞在費などは本人持ちだったのだから。
高額の旅費滞在費を自弁することができたうえに、その期間に休暇を取ることができる特権的地を持ち、仕事を休んでも、楽に食っていけるほどの資産家でなければならなかった。
だから、現代人の感覚・心性で「参加することに意義がある」と言葉通りに受け取るのは、まったくの間違いなのだ。
《炎のランナー》が描いている時代にブリテンでは、「アマチュアリズム」は、スポーツを飛びぬけて富裕な貴族や地主階級が余暇や余技として楽しむものだという価値観を社会に強制し、それゆえまた、一般民衆をスポーツから遠ざけておくための仕組みだった。
そして、有力貴族(土地・金融・商業エリート)の権威と優越を再生産する政治的装置・文化的制度として機能していたのだ。
それゆえ、スポーツから(賞金・報償を含めて)収入を得るなどという発想そのものが生まれてくるはずがない。莫大な資産を保有している者だけが参加できる世界の余暇である以上、得るべきものは金銭ではなく、「名誉」なのである。
「スポーツ・アマチュアリズム」あるいは「スポーツマン・スピリット」というものは、19世紀末から20世紀はじめまでのブリテンで生まれ、定式化されたイデオロギーであって、イングランドの〈エリート=ジェントルマン〉の思考スタイル・行動スタイルなのである。
それは、沈みゆく太陽の輝き、衰退しつつあるパクス・ブリタニカの栄光の遺物なのである。
ブリテンに挑戦しようとする諸国家は、やはりスポーツをエリート支配のための装置として組織していた。だが、スポーツの世界におけるブリテンの優越に対抗するために、さまざまな「変形」を加えていた。
たとえばアメリカでは、国際大会でのスポーツ競技を自国民の優位や威信を高めるための手段として、競技者養成システムに科学的分業による職業的専門指導者(プロフェショナリズム)を導入していた。
国内では産業=ビズネスの一部門としてプロスポーツを育成し、それをマスメディアの発達と結びつけて、民衆の国民的統合のための装置として活用しようとしていた。そして、一般民衆の出身者でもスポーツで寛著な業績や能力を発揮した者たちを、プロスポーツのエリート集団に迎え入れて、富と地位を約束した。
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