映画《炎のランナー》の社会史 目次
スポーツと階級格差
イデオロギーとしてのアマチュアリズム
挑戦を受けるブリテン
異端の挑戦
エリート内部での世代格差
エリート・キャリアの1部門としての芸術・芸能界
メリトクラシーとしてのプロフェッショナリズム
映画作品の物語と人物
炎のランナー
ゴッドファーザー

◆エリート・キャリアの1部門としての芸術・芸能界◆

  そして、ハロルドの恋人となるソプラノ歌手のシビル。
  彼女は歌劇のオペレッタに出演していた。
  ロンドンの歌劇場では、従来の貴族だけでなく、政府の官僚や法律家、会計士、計理士などのホワイトカラーの中間層(それでも社会のなかでは富裕階級)などもまた、大都市を中心に開催されるクラシック音楽会や演劇、オペレッタを楽しむようになっていた。

  その意味では「芸能界」は「社交界」と直結したエリートの世界ないしその縁辺に属していた。もちろん、大都市には一般民衆向けが楽しむ世俗的な音楽や演劇の世界もあった。
  けれども、ブリテンでは画然とした境界線が引かれていた。特別の嗜好がない限り、上流階級の人びとが、そういう場所に出入りすることはあまりなかった。もっとも、フランスのように、上流階級の男性が美貌の愛人を求めて大衆的な劇場に顔を出す(そしてパトロンとなる)ことはあったかもしれない。

  格式のある劇場とか歌手や演劇人は、その多くが貴族を含むエリート家系の出身者たちで占められていた。
  批評家たちやメディアから「芸術」と評価される技芸をを学ぶ機会は、この当時はまだ金と暇が余るほどある家系の若者たちにしか与えられていなかった。
  というのも、音楽やオペラやオペレッタなどの芸術は数百年前からの作品や方法の蓄積があったことから、ある程度の財力とと時間がある――つまり働かなくてもそこそこ贅沢に生活できる――階級の若者でないと、中流以上の階層の観衆や批評家の目にかなうような技能の習得ができなかたからだ。

  才能があって容姿端麗と評価される「上流家系」の若い女性たちは、世界で最初の、プロフェッショナル・スピリットを持つキャリアガール、キャリアウーマンだった。

  もちろん、その世界で成功すれば、エリートの若い子息たちとの交際・結婚によって、より高い社会的ステイタスを手に入れることができた。そういう意味での「成功報酬」を狙っていたかもしれないが。

◆メリトクラシーとしてのプロフェッショナリズム◆

  ところが、ブリテン風のスポーツ・アマチュアリズムは、1924年のオリンピックパリ大会で、急速に台頭してきたアメリカ合衆国のスポーツ・プロフェッショナリズムの挑戦を受けることになる。
  それは、スポーツでの世界観の変動を予兆するものだったが、同時に、没落するブリテンに代わって、新たに世界経済のヘゲモニーを掌握しつつある国民国家(大陸国家)の飛躍を予兆する事件でもあった。

  スポーツで記録や勝利をめざし、そのことから高い報酬の獲得をめざす専門的職業人としてのスポーツマン、そして彼らを育成しバックアップするシステム=社会組織(それには市場の形成もともなう)が出現してきたのだ。そこでは、成功=名誉は「報酬の多寡」という尺度によって与えられる。

  そういうタレントを発掘して育成訓練するシステムが、最新の科学技術を基礎にして構築されていく。あたかも、T型フォードの生産工程に、機械化された流れ作業の工程ラインが導入されたように。「メリトクラシー」と生産・育成システムのライン化は「フォーディズム」という形態で統合されていく。

  「炎のランナー」は、こうした世界的規模での歴史変動の文脈を、スポーツの世界という断面で切り取って感動的に描き出した傑作である。

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