人口の減少で農村でも荒廃が進んだ。シエーナやローマ平原、とりわけて南部では田園、耕作地帯が湿地帯や荒蕪地に変わった。
ピーサでも排水施設や水路網が補修されることもなく荒れ果てて湿地や沼沢に飲み込まれた。港湾も土砂で埋まって湿原になってしまった。
その結果、蚊が増殖してマラリアが蔓延するようになった。
その後も数十年ごとにヨーロッパを襲った疫病は、ペストやマラリアだけではない。痘瘡やインフルエンザ、赤痢などなどが、人口が回復しかけた都市を襲ったという。
例外は、ロンバルディーアの農地開発や灌漑施設の整備に努めたミラーノ公国だった。都市政庁も飢餓や疫病被害の軽減や回避のために公共政策を講じた。
つまり、十分な食糧の生産と都市政庁による分配・配給政策によって、下層民まで食糧がいきわたり、体力と免疫力を保持させたため、罹病率は低く、人口の減少率はイタリアでは最も低かった。
このことが、14世紀後半から15世紀にかけてミラーノの勢力が伸張した要因の1つだった。
その頃から、波状的にやって来る食糧危機(凶作と価格高騰)のたびに、都市では疫病だけでなく、生活苦に不満を抱く下層民衆の蜂起や反乱が続発するようになった。都市の支配者は、貿易に介入して、近隣や遠隔地からの食糧調達の方法を整えるようになった。
飢饉や食糧高騰に対処するための都市の政策という経験が、やがてその後の近代的な国家制度・国家装置の編成にさいして影響をおよぼしたと見る政治史家もいる。
ヨーロッパ諸都市はこのような環境危機、人口危機に直面して、必要物資をさらに遠方から調達するために貿易圏のさらなる拡大を推し進めた。
北イタリアの中央部に位置するミラーノは、早くから交通の要衝だった。
フランス南部やリヨンからアルプスを西回り、あるいはトーリノを経て、ヴェネツィア、ロンバルディーア、ヴィーンにいたる道が古くから連絡していた。
それはまた、アルプス東回りにドイツ、ライン地方、バルト海方面からイタリアへつながる道のターミナルでもあった。
内陸ではあったが、ヨーロッパ貿易の結集軸、結節点をなしていた。財貨や情報、人がヨーロッパ中から集まる焦点の1つだった。
ミラーノ市には古くから製造業が発達していたが、上記の交通・物流上の利点を土台に地場の貿易商人や金融業者が成長した。そして、ミラーノの商人たちは、いち早く域内の製造業を組織化=統制・支配して、域外の商人への従属から離脱させることに成功した。
一定の地理的範囲で――政治的・軍事的に――自立した経済構造が成立するためには、製造業の発達だけでは十分ではない。
外部に対して高い自立性を備えた地場の商人=商業資本が成長して、域内の政治権力と融合し、産業を政治的に統合しなければならない。
「自立的な産業資本主義の成長」あるいは、「経済を政治や軍事から分離して自立的に分析できる」などという《たわけた絵空事》では、権力闘争と絡みついた現実の歴史を省察することはできない。