さて、ミラーノ地方在地の政治権力とはヴィスコンティ家で、とりわけ司教座都市ミラーノの大司教、ジョヴァンニ・ヴィスコンティだった。
ヴィスコンティとは、イタリア語で副伯(副伯爵)、つまり神聖ローマ皇帝の高位の代官、イタリア地方管区の長官という意味だ。
彼は世俗の政治的・軍事的権力をも駆使して、大がかりな膨張・侵略政策を展開した。だが、拡張した領土は、彼の死没後の混乱でかなりの割合が失われた。
ところが、ジョヴァンニの孫、ジャン・ガレッツァの治下で、ミラーノはふたたび大胆な領土・勢力拡張を繰り広げた。
14世紀の末から15世紀のはじめにかけて、ミラーノは、ロンバルディーアに加えて、エミリア地方の大半、ヴェローナとヴィチェンツァ(ヴェネート地方)、ピエモンテ地方、トゥスカーナ地方のピーサとシエーナ、ウンブリア地方のペルージャを征圧・攻略した。
ところが、イタリア諸国家体系のなかでは、1つの都市国家の権勢が膨張するや、その権力を相殺しようとする「勢力均衡(別言すれば、足の引っ張り合い)」の力学がはたらいた。
支配地=勢力圏域を急速に膨張させたミラーノに、ほかの有力な都市国家群から執拗な反撃が加えられた。これには教皇庁も1枚噛んでいた。
ヴェネツィアとフィレンツェは同盟して、ミラーノの領土・勢力圏を切り崩しにかかった。教皇庁はトゥスカーナ地方やウンブリア地方やボローニャを奪回、シエーナも「独立」を回復した。とはいえ、独立=「主権回復」とはいっても、新たな力関係に順応し、なびくかぎりでのことだった。
戦線のあちこちがいとも簡単に切り崩されたのは、ミラーノの内部で公位継承をめぐって紛糾が生じていたためだった。
君主の座をめぐる争いに勝ち残ったのは、ヴィスコンティ家のフィリッポ・マリーアだった。
ところが、この内紛のあいだ、ミラーノは近隣の有力諸都市の包囲網の執拗な攻撃にさらされ、勢力圏をかなり縮小させたが、最有力の都市国家の1つとしての地位を持ちこたえることができた。
というのは、ミラーノには、おそらく世界史上はじめて「近代国家組織」が形成され運動していたからだった。
ヴィスコンティ家はこの地方の統治機構を構築するために、大胆な集権化を進め、域内の都市団体や貴族(有力家門)、商人組合などの特権を制限してきた。政庁をヴィスコンティ家の家政装置の統制下に組み込み、独自の課税・徴税制度、つまりは独自の宮廷財政を運営していた。
そして、ときどき噴出する公位とか大司教職の継承争い(内紛)では、有力家系や商人団体の影響力を統治の中枢装置にはおよばないようにしていた。
都市内の諸勢力からある程度自立した宮廷財政は、君侯直属の傭兵団を組織・運用して、域内に睨みを利かすことができた。
というのも、この傭兵隊の隊長こそ、自分の権勢とヴィスコンティ家の権力とを一体視しているムッツィオ・アッテンドロだったからだ。
その息子、フランチェスコ・スフォルツァも、またフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに仕え、その娘と結婚した。
やがてフィリッポが死去して公家の正統の男性継承者が途絶えると、またもや公位継承争いが起きて、市民の蜂起で共和制レジームが樹立された。フランチェスコはこの共和政体の防衛軍総司令官となった。
そして、軍事力を掌握したフランチェスコは、策謀を弄して共和制を破壊して君主制=ミラーノ公国を復活させ、自らその君主におさまった。
ミラーノ公のレジームは、域内の諸勢力から相対的に自立した政治的権力として、すぐさま新たな君主に適応した。
というよりも、このとき、ごくわずかな期間と程度において、ミラーノ政庁は、君主の家門やパースナリティからは相対的に自立した独自の国家装置として存在し、機能していたのだ。
だが、この実験は長くは続かなかった。まもなく、政庁機関はスフォルツァ家の家政装置と一体化してしまった。それが当時の政治組織・行政装置の編成原理であり運営慣行だったからだ。
このフランチェスコ・スフォルツァもまた、チェ−ザレ・ボルジアと並んで、ニッコロ・マキァヴェッリによって才腕と資質を高く評価された君侯の1人だった。