《のだめカンタービレ》
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◆千秋とのだめの人物像◆

C: そうそう、千秋とのだめは、問いかけのスタイルや模索のスタイルがまったく違う。鋭いコントラストをなしている。それはマンガの描き方、人物設定、セリフ回しに現れている。
  千秋は内省的で、自分の悩みや模索を、かなり明白な言葉にして、自分に問いかける(モノローグ)。読者は、だから、千秋が今何を考え、感じ、何を悩み求めているかが明確に読み取ることができる。
  ところが、のだめにはモノローグがない。自分の感情や思いをセリフや独白の言葉にして表すことが、ほとんどまったくない。まるで昆虫が運動しているようで、その動き方から何を目標にし、あるいは求めているかを読み取ることになる。
  ぼくは、結局、今になっても、のだめが感じ、考えていることが理解できていないような気がする。
  想いを言葉に定式化する千秋と、定式化がなくて行動をつうじて(読者が)結果的に想いを読解するしかないのだめと。

A: つまりそれは、自己分析し、認識し、理論化する立場、それゆえまた目的意識的に自分に訓練を課していく千秋と、いわば定式化を拒否する立場、直感的、本能的にアクロバットのように自分の進む道を選ぶのだめとの対照的な、対極的な描き方というわけだね。
  哲学の歴史でも、同じような立場の対立というか対照というべきものがあるよ。

  直感的、直観的な判断、あるいは純粋理性による一気的な事象の把握を優先する立場と、思考論理を綿密に組み立てていって、認識を構成する立場と。
  これはマンガだが、きっと音楽の世界にも、あるんだな。似たような対比が。
  でも、結局、直観や直感に頼る立場でも、ある歴史の厚みや伝統を持つ社会のなかで育った以上、先行する歴史や先達たちの影響や世間の価値基準や評価の影響を自分が受けているんだな。環境のなかで影響されつくられてきた自分のセンスや能力というものがあるんだ。
  それに無自覚で自己分析を試みない立場と、できるかぎりそういう自分の内部の構造を知り、その限界や狭さ、付け加えるべきものを問いかけ、自分の傾向をできるだけ客観的に見つめようとする立場と。


  哲学では、純粋理性による直観を優先する立場は、じつは歴史と社会環境からの影響、束縛をいやというほど自覚しているがゆえに、その束縛や拘束からできるだけ自由になるために、直観(正確には直接的観照 die unmittelbare Anschaung )に依存する方法をとるんだがね。
  のだめで言えば、幼い日に心に受けた傷、悲惨な経験への畏怖心から逃れるために、直感や動物的本能にだけ頼り、楽譜を読まずに耳で覚える方法にのめり込むことになるんだろうな。

C: 「純粋理性」って、変な言葉ですね。理性というのは合理的精神ですよね。世界を創った神の意志と法則を斟酌、推論、忖度する態度や心性のことですよね。それが「純粋」?

A: 理性とは、本来は神の意思=宇宙(この世)の摂理を理解しようとする知性を意味していたが、ルネサンス期以降、神(ローマ教会が提示する世界観)から自立した人間個人が自然や社会の仕組みや法則を知覚しようとする知性という意味を帯びるようになったんだ。
  その理性に「純粋な」という修飾語を冠したのは、世俗の手垢にまみれていない理性ということだろうな。だが、純粋理性は時代を追うごとに世代交代、進化していくんだ。世代によって中身がどんどん変わっていく。
  というのも、直観的とはいっても、世俗の手垢にまみれた俗説や既成観念や価値観によって影響を受けた自分の精神をそのまま信じて認識する態度に批判が続くんだよ。そうなると、そういう世間の既成観念や先入観=偏見を自己分析や自己批判によって削ぎ落として、純化していかなければならない、ということになる。
  つまりは、複雑な自己意識の認識過程を経て、ようやく純粋理性に達する。それから、世界という対象の分析と認識が始まるというわけだ。

B: イタリア・ルネサンスの末期(フランスやドイツの宮廷での周回遅れのルネサンス)にこの純粋理性なるものを意識化することが始まったらしい。それがロココやバロックの時代を経て、啓蒙主義時代、ロマン主義の時代にかけて純粋理性なるものが、合理的な認識方法としてもてはやされていく。
  まあ、社会や世間、身分仲間と区別される自己=自我というものを意識化していく歴史に対応するものと言えるね。けれども、啓蒙主義やロマン主義時代に頂点を極めた途端に変質、没落していくんだね。
  これは、古典音楽の歴史ともオーヴァーラップするんじゃないかな。

C: そうそう、原作にも描かれていましたね。
  音楽ムージークムとは、もともと宇宙の摂理や法則、つまりは神の意思を探り描き出すためのメタフィジーク(哲学や神学と並ぶアーツ)だったんですよね。だから、最初はローマ教会や神学の意向に強く影響されていた。
  けれども、しだいに音楽は「現世の善」や「地上の美」を求め表現する技芸に変化していく。やがて、宮廷貴族にに雇われた演奏家としての作曲家=音楽家のパースナルな美意識や世界観の探求や表現になっていき、芸術、というよりも美しいものにひたる快楽というか娯楽になっていくのでしたね。

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