《イ ヴィチェーレ》へのオマージュ 目次
イタリアの19世紀末
国民形成への道
国民形成の苦難
リソルジメントの意味と限界
トラスフォルミスモ
議会制のあっけない崩壊
ファシズムの歴史的位置づけ
ファシズムと民主主
《山猫》と《副王家の一族》

議会制のあっけない崩壊

  《イ ヴィチェーレ》の映像物語の終わりにコンサールヴォが独白したように、イタリア王国の議会が正規に招集されまともな議事が開始されたのは、1918年、彼が77歳のときだった。
  おりしもヨーロッパには第1次世界戦争後の混乱と荒廃が席巻し、イタリアは深刻な経済危機と苛烈な階級闘争が展開していた。国内各地方の格差や対立も解消されていなかった。労働組合による工場占拠や右翼による襲撃、農民と地主との闘争も続発した。
  社会党左派から共産党が結成され、台頭した北ファシスト党と激しく敵対・闘争する。政治的対立を抑制する秩序枠組みはなかった。
  深刻化する危機のなかで、結局、国民的統合を確立できなかった支配諸階級・富裕階級は分裂し、指導権を失っていった。エリートとしてのアイデンティティと自信を失い、自暴自棄になった。権威と権力関係の空白につけ込んだのは、ファシズム運動だった。
  こうして、1922年、ファシスト党が政権を掌握する。
  王国議会は機能し始めて4年足らずで、ファシスト独裁の前にあっけなく崩壊した。いや、まともに機能することもなく、解体してしまった。というよりも、議会制度をつうじて支配階級が自らを国民的階級に融合し、国民的規模での政治的ヘゲモニーを掌握することもなく、いや、なかったがゆえに、ファシストの暴力的運動に屈してしまった。
  そして、皮肉なことだが、ファシスト党こそが、きわめて歪んで暴力的な形態においてではあるが、支配階級(それまで政治的・経済的に最有力だったエリート)がなしえなかった国民的統合秩序=国民形成を推し進めたのだった。

ファシズムの歴史的位置づけ

  ムッソリーニが指導したファシスモについては、かつては歴史学的(政治的)にはただ単に否定的に評価されてしまって、その歴史的意味合いについては真剣に分析されることがなかった。政治や社会の例外的な「逸脱現象」としててだレッテル貼りするだけで。歴史を倫理的に断罪するだけでは、歴史を理解することにはならない。
  しかし、ある事象が歴史的に生じてしまったということは、それが出現し支配的になるまでの過程があったはずであり、その意味では偶然の連鎖のなかにそこそこの必然性があるはずである。「歴史の発展・進歩」という価値観には否定的な私だが、実際に生じた歴史的過程については、それが生起し支配的現象になるまでの事象の連鎖という意味での「必然性」はあったと見るのが、自然だろうと思う。
  なぜ、いかにしてそうなってしまったのかを把握する必要がある。

  で、ここで、イタリアの19世紀末からの国民形成(国民国家構築)の過程の限界というか行き詰まりがあったことが明白になったのだから、この《国民形成の危機》という事態から、ムッソリーニのファシズムの出現と権力掌握の必然性を見ることができるだろう。
  つまり、地方ごと、産業分野ごとに分立したまま、自分たちを《国民的に統合された支配階級》に組織化できなかったエリートが、深刻な経済的危機、政治的危機に直面して統治の展望を見失い、委縮し威信を失い、まさにヘゲモニーを形成・掌握できなくなった状況で、秩序維持のために暴力的・攻撃的な抑圧や統治を好む政治集団が旧来のエリートに取って代わり、形成途上の国民社会の深刻な分裂・断裂の深化を避けるために、自ら好む統治スタイルを推し進めたということである。
  あるいは、統治階級は茫然自失して、そのような暴力的運動を封じ込めたり、別の形態の運度を提起したりできなかったということだ。エリートは諦念のなかで、現今のレジームが維持されるのなら「ファシストでもいいや」という投げやりな気分に陥っていたのだ。
  エリートは、ファシストがきわめて暴力的・粗暴な形態で政治装置やイデオロギー装置を占拠していくのを黙認し続けた。
  したがって、そのような抑圧的・粗暴なやり方で、旧来のエリートが実現できなかった、確固とした国民的レジームを確立しようとした試みだったというわけだ。

  そもそも、民主主義的形態が西ヨーロッパの政治史や国家史のノーマルな形態だと見る方がおかしいのだ。「民主主義のお手本」とされる、あのブリテンはどうだったか。
  17世紀のピュアリタン革命から名誉革命の時期に、イングランドのエリート諸階級・諸階層にとっては、政治的権利の拡大をもたらした同じ政治過程が、他方で、アイアランドではジェノサイド=民族絶滅のごとき原住民への暴力的な抑圧と収奪が系統的に追求されていたことを見てほしい。
  「ナチスもかくや」と思えるほどの残酷な戦闘や攻撃、破壊の仕組み=装置が創出され始め、それから400年間近く、軍事的・政治的・経済的な抑圧と収奪が繰り広げられ続けたのだ。それから220年以上にわたって《世界帝国》を構築していくブリタニアンの尊大で横柄で傲岸不遜な姿勢を見てみるがいい。
  おのれの栄光には目をやり自画自賛・誇示するが、踏みにじられた者どもの苦痛や苦悩を知ろうとすることはなかった。ヴィクトリア時代のあの専横、詩人バイロンのあの傲岸不遜なフライ図の数々を見るがいい。弱者の苦悩や痛みを知ろうとするのは、ブリテンが世界覇権を失い長期の衰退に入ってからだった。とはいえ、この知ろうとする態度は大切なことである。アメリカの現今の態度を見れば、そう言えるだろう。

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