さて話をもどして。
このところ、政府(文部科学省)や教育界では、日本の少年少女(小学生・中学生・高校生)の「学力」の国際的に見て相対的な低下が起きていて、ゆゆしい問題と意識されているようです。
「勉強が足りないからだ」「学校の授業での教え方がまずい、あるいは不十分だからだ」という見解がまことしやかに、政府の諮問機関から提起され、学校教育のあり方の再検討・改革が必要だという世論づくりにやっきになっています。
で、少し前に導入された「ゆとりの時間」などをなくし、とくに語学や数学、科学などについて、ふたたび「つめこみ教育」を復活させようとしているとか。
「ゆとり」にしても、「つめこみ」にしても、教育行政の側の都合とか政治の都合で決められているような気がします。
子ども一人ひとりの個性ごとに「ゆとり」をもって学ぶ方が向いていることもあるし、「つめこみ」が得意なこともあるでしょう。
問題は、大量生産の製品のように、一見「平等」を建前としながら、一斉一律で画一的な教育を押し付けていることにあるのではないでしょうか。
「強い国をとりもどす」とか「経済大国」の夢の回復とか訴えている、時代錯誤な「お坊ちゃん首相」やら「世襲政治家たち」が主導する改革は、どこに行き着くのでしょうか?
また、学校の「管理者層」を拡充したり、「徳育」とか「愛国心」の涵養をしたりしようという動きもあるようです。なんか時代錯誤だよなあ、と思います。
もちろん、そういう価値観も含めて、それ以外の多様な価値観をもできるだけ広く見せて、選択の幅を広げ、自由に選択したり批判させる能力をこそ育てる必要があるのではないでしょうかね。
何年か前には、自分の政治資金の出入りにかなり後暗いことがあるといわれ、批判の矢面に立たされていた大臣を首相は庇い続け、ついに本人が自殺してしまうという事件もありました。
規律や道徳・倫理、さらに愛国心をやたら称揚する政治指導者たちが、「自らの誤りを認め反省すること」から逃げ、言葉や逃げ口上で取り繕う。
そんな姿勢で、よくもまあ、教育のありかたを云々し、そして子どもたちの評価ができるものですねえ。
なんだか、彼らが扱いやすい人間をつくりたいのではないかと勘繰りたくなります。
もし仮に、総体として日本の子どもたちの学力や学ぶ能力(テストに「正解」を書く能力ではない)について問題があるとすれば、
その原因は、子どもたち自身の目的や目標、興味が見失われ、さまざまな制度によって問題発掘能力や疑問提起能力が後退していることです。好奇心や批判精神を育て切れていないことです。
なんのために学ぶのか、学んでなにが見えてくるか、なにに役立つか、学んで楽しいことがらを自ら見つけていく、そういう場が奪われているせいでしょう。
一方で、国際学力試験で、数年前にはすべての科目、とくに理数科目でトップクラスにあるフィンランドの教育・学校制度が注目されたこともありました。
そこの(おしなべて北欧諸国の)教育や学校は、日本とは対極にあるようです。