人口が1億2500万以上あって、人口が多すぎるせいか、経済活動では競争やつぶし合いをしている日本。
「少子化」に悩んでいるのに、保育施設の充足には程遠く、いまだに幼児の多くが保育を待機しているようです。社会が子どもたちを一人ひとり大切に育てているというようには見えません。
1クラス10〜15人編成、各人がそれぞれの目標・目的・内容で学習する、一斉授業はやらない(ということは、一斉テストもやらないということ)という制度をつくれるでしょうか。
財政優先の日本では、たぶん無理でしょう。
無給のヴォランティアの教師たちが、指導者ではなくカウンセラーとして教育現場に殺到するということも考えられませんし。
じつは、江戸時代の後期、日本でも似たような教育・学校制度が、しかも「お上」の手を借りずに、民間人が独自の「公共空間」をつくりだして、成立していたのです。
そうです、「手跡手習い所」や「寺子屋」といわれるものです。
教科書も「国定教科書」「国家検定教科書」なんていう無粋なものではありません。各師匠のお手製か、民間に出回っている書籍やその写本でした。
子どもたちは、読み書きの基本を、それも1人1人の子どもの家庭=職業事情や必要、習熟度や能力に合わせて学んでいました。
もちろん、時代的制約はありますし、市民権や教育権とか児童保護法なんかはありませんから、限界はありました。
が、19世紀半ば、世界のほとんどの地域では識字は支配階級の特権であった時代に、日本の大都市では識字率が60%を超えていたのです。
結論: 愛国心や道徳も含めて、「正しさ」の押し付け、教育の押し付けをやめよう。国家や教師の「善意の押し売り」をやめよう。
アフリカのソマリアやスーダン、あるいはシリアやアフガニスタンの、それこそ生存さえ脅かされる悲惨な現状を見るとき、不謹慎ですが、私は偶然、日本に生まれて幸運だったと思います。
貧しく、つつましい生活ではありますが。ずっとましです。
あそこで生まれてきた子どもたちには、ホッと息つくゆとりもなく、飢餓や栄養失調、病気、戦争で死んでいく者が多いとか。
住む場所や生きる場所がない人びとのことを思いながら、自らの偶然の幸運に感謝しながら、郷土愛とか「日本という文化圏」への愛着や親和感を考えています。
「国家」「国民」という政治的単位・軍事的単位、権力構造のことではありません。
人びとが互いに連帯して「国のありがたみ」を感じ合うような仕組みをどうつくるか、という課題の方が重要だと思うのですが。
ブリテンの警句に、「愛国心は卑劣漢の最後の逃げ場」というものがあります。サミュエル・ジョンソンの言葉だとか。
官邸や官庁街で特権的地位にあって、快適さや贅沢さに取り囲まれて生活し、しかも2代目、3代目政治家としてぬくぬくとして育ち、そのうえ、国家政策をめぐる利権や権益に群れ集まる手合いに、はたして「国を愛する心」を語る資格が、はたしてあるやなきや、私は深く疑います。
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