さて映画は、教会でのハロルド・エイブラムズの葬儀シーンで始まり、そして終わります。あたかも会葬者の回想シーンとして、1920年代の状況を描いていきます。
回想の出だしは、1924年パリ大会オリンピックへの出場を目前にしたブリテン・ナショナルティームの海岸での練習風景。そして、海岸近くのカールトンホテルでの合宿のシーン。
続いて場面は1919年、ハロルドがタクシーに乗り合わせたオーブリ・モンタギュと一緒にケンブリッジ大学のある学寮(college:エリートは「コレージュ」とフランス風に読む)の入学手続きにやって来るところに移ります。
この場面で、イングランドのエリートサークルの(閉鎖的な壁を突破して)なかに入り込もうとする異端者、ハロルドの挑戦的な心性と態度がみごとに描かれています。
ハロルドは、シティの有力なユダヤ人銀行家の子息で、裕福でありながら、イングランドのエリートの「インナーサークル」からそれとなく疎外されているユダヤ人の立場と気負いを前面に出しながら、エスタブリッシュメント主流派に挑戦しようとしています。
ハロルドは、(新入学生を子ども扱いする)学寮の古めかしい伝統・慣習を押しつけようとする寮監に食ってかかってへこませます。
それは、軽く受け流して無視してしまえばそれで済むことでした。しかし、ユダヤ人エリートとしてのコンプレクス(自負と劣等感)を深く心に内包する彼の個性は、寮監の態度への反発を避けられないものにしたように見えます。
彼のこの気性(自己主張)は、冒頭のナショナルティームの合宿の場面でも明示されています。そして、それを周囲の仲間たちが個性として受け入れ、ティームにとってむしろ好ましい要素として認めている様子が描かれています。
パブリックスクールを経てケンブリッジやオクスフォード大学(このほかにエディンバラ大とかLSEなど)で学歴を積むことは、ブリテンの支配階級のトップエリートへの登竜門の1つで、知的能力や学問上の達成をつうじてエリートに同化する道としての役割を果たしています。
この2つの大学を合わせて〈オクスブリッジ〉と呼ぶこともあります。
この時代、エリート大学の学生は、主に有力貴族を筆頭とする富裕地主層、または世界貿易や国際金融を営む富裕商人層、あるいは政府の高級官僚、有力法律家などの子弟でした。ただ富裕であるだけでなく、学業での高い知的試練に合格しなければなりません。彼らの家系はいわゆる「ジェントルマン階級」です。
ジェントルマン階級の上層は、政界、聖界、経済界、官界の指導者として相互に縦横に結びつき、影響力のネットワークと回路を組織し、ほかのどの階級よりも強固に結集しています。
つまり、普通の産業資本家層のはるか上に立ち、グローバルな視野で、世界貿易や国際金融を取り仕切り、また国家政策や帝国・植民地政策の形成や意思決定にかかわる階層です。飛び抜けて富裕であるがゆえに、日々のこまごました金儲け仕事や肉体労働にはさしたる価値を見出さない人びとなのです。
もとより、こうした家系には必ず、金遣いの荒い「ごくつぶし」や怠け者も何人かはいたようです。
つまり、彼らは、だいたい、余暇時間を自由に取れる富裕層で、そのなかには非常に高い水準の学問研究や思索、スポーツを余技として追求するエリートがいたのです。彼らは、国民社会(nation)の知的、芸術的、文化的活動の指導者、模範となるものとされていました。
公式上、こうしたジェントルマン階級の頂点に位置するのが王室とその一族とされていました。彼らは芸術活動やスポーツのパトロン(庇護者)となるこはあっても、自ら営む芸術・文化活動や科学研究、スポーツなどは無償の余暇活動と位置づけていました。学芸活動やスポーツで報酬を得ることは、むしろ卑しむべき活動と評価していました。
というのは、彼らはすでに頭抜けて金持だったからです。