炎のランナー 目次
原題について
異端の挑戦とエリート主義
あらすじ
作品が描いた時代と主題
ハロルド・エイブラムズ
ジェントルマン階級
エリートとスポーツ
疎外感と挑戦意欲
異端とエリート
仲間たち 新世代エリート
エリク・リデル
統合装置としてのスポーツ文化
王室の権威よりも信仰を選ぶ
エリート内部の世代格差
ブリテンとアメリカ
アメリカの挑戦
翳りゆく栄光
レジーム変動
ハロルドとエリクの挑戦

エリート内部の世代格差

 アンドリュの提案は、彼自身はすでに障害走で銀メダルを獲得しているので、400メートル走を辞退し、代わりにエリクを出場させれば、エリクの意思を尊重し同時に委員会の面子を立てることができるというものです。
   この場面では、トップエリート層のなかでの世代の差、つまり世代ごとの世界観や人生観の違いが描かれています。

   老年の貴族は、「王権や国家という存在の前では個人の信仰や意思の尊重は、そもそも問題になりえない」と吐き捨てます。が、中年の公爵は、「立場は違うが、エリクの考えは正しい」と認めます。そして、青年貴族アンドリュは、「個人の意思や挑戦意欲」を表明する才能をエリートの内部や周囲に参集させることこそが、エリートの名誉の維持につながり、権威の再生産につながると展望しています。
   さて結果的には、400メートル走はまさに、驚異的な持久力と心肺機能を備えたエリクに最適の競技種目で、彼は金メダルを獲得します。ハロルドは200メートルでは敗北しますが、100メートルでは栄冠をかちとります。

 

ブリテンとアメリカ

さて、パリのオリンピック会場では、アメリカ合州国ナショナルティームの練習風景が見られます。

  新興工業国アメリカの選手とコーチは、科学技術とプロフェショナリズムによって武装していました。指導と訓練での徹底した分業システム=専門化とプログラム化されたトレイニング。
  いわゆる「フォード主義」をスポーツに導入したかのようです。
  そして、アメリカの競技者は、ブリテンに比べてより個性が自立している(スポーツでの活躍を自分個人のエリートへの上昇の道ととらえている)ように見えますが、その一方で、コーチング・システムや系統的な練習システム、組織のバックアップなどをつうじて、ナショナルティームとしてはるかに強固に組織化されています。

  そこでは、競技団体によって資質や才能を発掘され、あるいは業績を認められた個人は、社会的上昇の階梯を一気に駆け上がることができました。合州国はこの時点ですでに「大衆化されたメリトクラシー(業績=能力主義)」を国民的・社会的統合の鍵となる制度にまで発達させていたのです。

  さらに、スポーツの世界に「プロフェショナリズム」、すなわち巨大な利潤を生みだすビズネス=産業を持ち込み、マスメディアと緊密のリンクさせて大衆にアピールし動員する仕組みを創出しようとしていました。そして、プロスポーツの次元をアマテュアリズムの上に位置づけたのです。

  これは、ごく少数のエリートが、それぞれ個人として独立し、個々に修練を積んでいく(アマチュアリズム礼賛)スタイルのブリテンとは対照的です。それゆえに、ハロルドやエリクは個人としての意思と意欲を前面に出して、国家や団体の権威に挑戦したのでしたが。

アメリカの挑戦

しかし、国際的なスポーツの競技結果では、しだいにアメリカのこの新しい方法論が優位を確立しそうな気配でした。
  当時アメリカは、国際的には自由市場、自由貿易を求める国家ではなく、自国の優位を確保するために、徹底した保護主義(関税や貿易規制)を採用し、各州を合州国という1つの経済単位として強固に結束させるために、やっきになっていました。

  スポーツの世界でも、連邦国家や州政府の指導者と直結したいくつかの競技団体が、強力に指導しようとして組織化を始めていました。これは、他方でプロ・スポーツ(野球やバスケットなどでの産業としてのスポーツ・リーグ)の勃興と結びついていたかもしれません。
  そこには、1920年代の世界経済における権力関係の変動の兆候が、やはりスポーツの世界でも現れてきていたことが読み取れます。つまり、世界経済での覇権を失いつつあるブリテン王国と、これに代わって覇権を握ろうとしているアメリカ、この2つの大国の思考スタイル、行動スタイルの違いです。

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