このウェブサイトで、私は、映画・ドラマ作品に描かれている物語や事件などについて考察します。
作品を批評・評論するわけではありません。そうではなく、映像の物語や文脈、事件や人びとの言動などの意味合いついて考察し、説明しようと試みるのです。いわば物語的側面、人物設定や状況設定の側面から「映像の社会史」「映像の社会学」としての考察を進めようとしているのです。
このような記事を書くのは、じつは映画の物語や文脈、事件はなかなかに複雑かつ動的な構築物で、かなりわかりにくいものからです。
分析や考察が必要なのです。
観客はいっぺん観ただけでわかった気になるかもしれません。が、制作陣が込めた思いや問題提起、仕掛けなどは、すごく奥が深いのです。だから、何度も観て分析し、再構成しないと、理解には程遠いのが実際のところなのです。
以上のことから、ここでは作品の物語の展開や結末を明示することになります。つまり「ネタバラシ」「ネタバレ」記事です。結末がわかったらもう映画を観たくない、という人は読まない方がいいでしょう。物語の展開と結末を一通り理解したところから、物語の背景や人物設定などなど・・・この記事の内容が始まるのです。
言ってみれば、ここでは社会学や社会学の視点と言葉を用いて、映画――監督、原作者や脚本家、俳優、時代考証家、制作陣など映画に関わる人びと――への想い、敬意を語るということです。
映像プログラムは、人間の視覚に直接訴える表現手段を駆使します。映画やTVドラマではそこに聴覚的表現も織り込んで、かなり複合的な作品としています。
とくに脳での画像(映像)の知覚的処理は大変な労力を要するので、視覚的情報がそれなりに理解できたら、それだけで「わかったつもり」になるのです。
物語やその背景、事件や行動の原因、出来事の文脈などについては、どうしても後回しになります。
映画鑑賞の直後、ましてしばらく時間をおくと、作品の物語や背景、登場人物の行動の因果関係などの文脈を頭のなかで再現、再構成しようと思っても、非常に難しいのです。
いや、結末を知ったということで、その難しさや複雑さには、とんと頭が回らず、何となくわかった気になってしまうのです。
「わからない」と疑問を呈することができるのは、むしろ映画作品についての理解や印象がかなり明確な場合なのです。
単なる娯楽として割り切ってしまえば、それでいいのでしょう。しかし、映画を芸術的ないしは文芸的作品として観たら、どうでしょうか?
あるいは、私が、普通の人に比べて、映画については「頭が悪い」のかもしれません。
けれども、率直に言うと、私の経験では、一度しか観ていない映画のほとんどについて、相当に荒っぽい、粗雑でいい加減な理解しかしていないのです。
そのことをあらためて思い知らされたのは、あるブログを立ち上げて映画記事を書き始めたときでした。
このウェブサイトは、そのブログをもとにして、独自にリンクや検索の仕組みをつくり上げた映画作品の物語や事件の背景、人物などについて考察するデイタベイスとして編集=構成しようとする試みなのです。
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