資本の権力の大きさと国民国家と権力の大きさとが照応しないという、そのような世界経済的な文脈においてみると、資本主義的的世界経済の権力構造を国民国家を構成単位として把握するイマニエル・ウォラーステインの世界システム理論の狭い射程を、この問題領域ははるかに超え出ている。
そして、覇権国家の交替の歴史的傾向を経済や財政の構造から把握しようとするポール・ケネディの理論もまた、ブリテン(そしてネーデルラント)の資本グループの世界市場権力を分析する装置にはなりえない。
私たちは新たな方法をまず模索しなければならない。
ともあれ問題は、ブリテン資本の力量は、その本国国家の力量とはまったく照応しなくなっているわけだ。資本の権力構造は、国家の上に立つ上部構造 superstructure
となっているという状況だ。
方法論的な検討と検証をここでおこない暇はないので、以下のように簡単に要約しておく。⇒方法論的検証の資料
マルクスはその昔、《資本》においてブリテンを素材にしながら、産業資本の生産過程における支配構造から総体としての社会的再生産の権力構造を説明しようと試みたが、それは壮大なる失敗に終わった。方法を間違えたからだ。
総体としての再生産においては、おおむね上部構造が全体を支配するのである。生産過程は総体としてのこの権力構造の従属的要因でしかないということだ。そして、経済的生産・再生産過程を土台 Unterbau と位置づけ、政治的・法的・イデオロギー事象を上部構造 Überbau と位置づけるマルクスの静態的な方法自体が誤っているというべきだろう。現実の歴史の動態的な構造は、そんな静止画像のような、あるいは積み木細工のような方法では把握できない。
もしどうしても上層と下層とに区分するとすれば、総体としての社会的再生産体系を1つの権力システムと見立てたときに、その下層にある生産過程などの基層構造 infrastructure と、政治的支配と結びついた金融や世界貿易などを担う権力の上層としての上層構造 superstructure とに区分すべきだろう。
ところで、島国日本で一国史観に囚われ、また「高度経済成長」を国家主導型の経済運営で実現した日本の住民、私たちは、資本の権力が国家の力と照応しないばかりか、資本の権力が国家の力をはるかに凌駕し、独自の強大なダイナミズムを持つことをよく理解できないままであるようだ。つまりは、今私がここで語る問題は経験の埒外の事象なのかもしれない。
こうして私たちは、国家と資本の権力との相関についてクールでドライな見方を選択しなければなるまい。すなわち
@ 他国資本との競争など必要な事態にさいしては、スーパーエリートたちは政府組織や支配政党を動員して自分たちの特殊な利害を「国益:ナショナル・インタレスト」として押し出し、美辞麗句で飾りながら世論を誘導して、国民国家の資源や民衆の力を国際的競争に強引に動員・利用する。たとえば、国益を守るためと称して、軍備・戦争や運河などのインフラ建設を国家政策・外交政策として追求する。
一般民衆の多くは、国際的な対抗関係・競争のなかで、自国家が優位を得ると熱狂的に喜ぶような意識構造のなかにとらわれていく。
メディアなどの情報システムは、民衆が自分たちと国家を一体視するような思想――愛国心・ナショナリズム――を浸透させる。
そうして十分に懐を膨らませ、富と権力を蓄えたのちになると、
A タックスヘイヴンなどを利用した課税逃れなどはもちろん、利潤や利得の分配や再分配では、国家や国民であるはずの民衆をとことんないがしろにする。
そういう資本の運動傾向を分析の俎上に引き据えなければならない。それは言い換えれば、「愛国心」などというような虚偽イデオロギーを振りまきながら、国家や国民を自分の都合に合わせて利用しまくるけれども、世界市場における余りに厳しい資本どうしの間の生き残り競争のためには、国内民衆の生活を犠牲にしても、自社内での富と権力――それは世界的に展開させている――の蓄積を最優先する傾向ということになる。
資本間の生存競争は、労働者や下層民衆との間の階級闘争よりもはるかに苛烈だということだ。そして今や国内に本拠を置く巨大資本はもはや、民衆の福利をもたらすように国内に果実の滴を国内にしたたらせることはなくなりつつある。そういう資本の世界性
globality と国民性 nationality との欺瞞と虚飾に満ちた相関性を分析するということだ。