日本の経済論壇の多数派エコノミストたちは、20世紀末からのブリテン連合王国経済の「再活性化」は、サッチャリズムの成果によるところが大きいという評価を打ち出してきました。
3世紀以上も前からグローバル化を推進してきたブリテン金融資本(シティ)。
その権力ブロックと保守党との政策的同盟にもとづいて展開されたのが、サッチャー政権の《 the supply-side economic policy 》です。
その政策のおかげで、海外からブリテン国内へのの生産的投資――工場立地やEU向け輸出基地のための直接投資――を呼び込むための環境が整ってきたからだ、というのが好評価の理由です。
もっとも、その評価はブリテンの――ことに世界市場的文脈における――経済史について無知だからにすぎないのですが。
たしかに、サッチャー政権ほど露骨に、シティ金融資本と政権が強固に癒着し、直接投資呼び込みと国内投資の活性化のための税制上の優遇、金持ち減税、社会政策を切り詰めたインフラ整備への財政投入などを大っぴらに進めた政権はこれまでありませんでした。
J. M. ケインズ以来、UKの金融資本の世界市場指向と国内産業育成の軽視については、民主主義や雇用、階級格差の縮小を重視する経済政策学者たちは批判を浴びせてきました。
だが実際には、歴代の中央政府の政策運営は、たとい労働党政権であっても、シティの巨大銀行や国際金融商社の活動を制約するような政策を打ち出すことができなかったのです。なぜか、その理由をここで分析しましょう。
日本の世界史の教科書の記述と裏腹に、ブリテンは「産業革命なるもの」を開始したが、それを完遂することができなかったのです。
18世紀に世界経済のヘゲモニーを握ったロンドンの貿易商業資本とその最も有力なセクションとしての金融資本は、国内の産業の持続的な技術開発・革新を持続させるような投資活動にはあまり利益を感じなかったのです。
いや、科学技術の知識や工学ノウハウの研究と蓄積(特許の蓄積とその国際的制度化)には、大きな関心を示してきたのです。
ところが、その実際の製造業工程への導入や製造企業育成のために、国内産業を保護育成する方向に信用や資金を融通したり、その政治的影響力を政府に対して行使することはめったになかったのです。
彼らが最大の関心を払ったのは、ヨーロッパ、さらに世界的規模での貿易=海運・輸送ネットワークの構築と、それにともなう貿易・海運保険制度の組織化、海運・輸送システム(鉄道網や港湾建設、機械プラント輸出などによる)の国際的な建設に向けた海外投資でした。
それを、ブリテン植民地帝国という枠組みを構築する政策のなかに位置づけていきました。これは、パクス・ブリタニカの中核的な要因なのです。
ただし、世界貿易ネットワークの最有力の組織者=支配者であることによって、国内の製造業は「はじめのうち」は大きな利益を受けました。