たとえば綿工業。
貿易商業資本と金融資本は、自分たちが組織し管理する貿易ネットワークに流し込む綿製品の安価な供給を求めて、木綿繊維や衣料品の製造をおこなう工場主や企業を激しい競争に駆り立てました。
ところが、彼らの成長を助成するような投資や投資環境の整備を進めることはまずなかったのです。
むしろ、輸出にともなう貿易実務や貿易=海運保険の高額な手数料や掛け金をむしりとることで、綿製品の海外市場での販売で獲得した利潤の半分以上を、自分たちの懐に取り込んでいきました。
そのうえ、銀行や金融家は、工場建設や機械導入などにさいして製造業へ貸し付けた資金の利子を、たっぷり受け取っていたのです。
製造業は、貿易利潤の大半を商業資本(貿易業者・海運・保険会社)と金融資本によって、取り去られてしまったわけです。
だから製造業では、残された利潤の取り分を奪い合って、多数の中小規模の企業群が互いに苛烈な競争=つぶし合いを展開していました。したがって、労働者への分配を切り縮めること、搾取を極力推し進めるしか綿工業では、企業が生き残る途はなかったのです。
カール・マルクスが《資本》で指摘した、綿製造業企業・工場でのおぞましいまでの労働者に対する工場資本家の搾取は、こうした文脈で発生していたのです。
しかし、彼は、綿工業という基軸から外れた産業の直接的生産過程の分析に気を取られて、こうした社会的再生産の大文脈に批判精神を向けることがなかったのです。
というよりも、予定していたのに、その前に体力が尽きて斃れてしまった、あるいは方法を見いだせなかった、というべきでしょうか。
当時のブリテンでは、産業資本家(製造業)――なかでも綿工業――は、資本の権力構造の底辺近くに位置していたにすぎません。その上には、幾重ものより有力な資本セクターの支配と影響力がのしかかっていたのです。
だから、イングランドは「世界の工場」にはなることが1度としてなかったのです。ブリテン(国内辺境のスコットランドを除いて、ことにイングランド)では、「産業資本主義」なるものは、出現しなかったのです。
しかし、日本の学校の社会科授業では、このありもしないできごとを論証抜きに、子どもたちに押し付けているのです。
「資本の支配」という仕組みに関して、世界貿易=商業と金融の組織と力の大きさについて、もっと正確に認識する必要があります。が、とりわけ日本のアカデミズムでは、この問題意識がきわめて希薄なのです。
権力システムとして世界貿易と世界金融を分析する視座は、アカデミズムでは欠如したままです。マルクスの名前をありがたがることはあっても、内容を体系的に把握しようとする理解力や発想、知性はきわめて希薄なのです。
ともあれ、こうしたブリテンの基本構造はずっと20世紀にも続きました。
そういうわけでで、国際的に見ると、「先進諸国」のなかでは、ロンドンを中心とした金融資本の力が抜きん出ている割には、ブリテンの産業構造で製造業の地位と力はかなり貧弱・脆弱な状態が続いてきました。ケインズが批判し続けた問題点です。
もとより、それでも、世界市場から利潤や利得が流れ込むロンドンとその周囲の諸都市の企業や経営者層は、国際的に比較しても、かなりの金持ち階級としての地位を維持し続けてきました。
彼らの活発で豊かな消費欲望は、ブリテンの南東部や国内全域の製造業やサーヴィス業のそれなりの成長を導く、大きな需要を提供してきました。それは事実です。
ところが、製造業ではそこそこ技術力(ノウハウ)はあっても、世界市場での最優位を競い合えるような企業群はごくわずかしか成長しなかったのです(石油化学や航空宇宙の超巨大企業を例外として)。国内の製造業インフラストラクチャーも比較的低位のままでした。
そうなれば、当然、国内に入る金の割りに、国内の雇用水準は芳しくないという状態になります。
とくに若年層を中心に雇用状態は劣悪で、いつも大都市を中心として、かなりの数と比率の失業者の大群が存在する、ということになります。
労働党の政権でも、この構造を転換することはできませんでした。
政府の金融財政の仕組みが、特殊な民間銀行である(国策銀行ではあっても、国立=国営銀行ではない)イングランド銀行とシティの金融資本に牛耳られたままでは、政府は「決定的な政策」を打ち出すことはできなかったのです。
ブリテンのラディカル・エコノミストたちが、日本の旧通産省(MITI)を中心とする産業育成政策・貿易組織化の政策を高く評価してきたのは、そのようなブリテンの経済政策の問題を痛切に感じてのことでした。