この物語は、天才少年ピアニスト、マネク・センの成長譚でもあるが、19世紀ロシアの貴族文化を今に受け継ぐユーリーナ・スザーツカの、マネクとの出会いと別れを通しての、心の変化を描いた抒情詩でもある。
私としては、題名からもわかるように、スザーツカの生き様がより中心的なテーマだと考える。
彼女は、1世紀も前のヨーロッパ貴族文化を母親から受け継ぎ、古典的教養と、やや押し付けがましい「ヒューマニズム(人文主義)」を土台とする芸術文化の、おそらく最後の担い手だ。
であるがゆえに、また、時代の流れや流行に対して毅然と立ち向かい抵抗する。凛々しい姿、凛然とした生き方が美しい。
その生き様は、物語の背景をなしている、ロンドン旧中心街の「奥ゆかしいたたずまい」にも似て、いまや歴史のとばりの彼方に消え去ろうとしている「何か大切なもの」に見えます。
だが、マダムは弱々しく消え去るわけではありません。凛として、しぶとく生き残ろうとするのです。
ユーリーナが間借りしているエミリーの家の所有権は、ブロウカーの手に移ってしまいました。同じ屋根の下で家族のように暮らしていた仲間たちは、みな老人用共同住宅に引っ越してしまいました。
住み続けているのは、ユーリーナ・スザーツカただ一人だけです。
けれども彼女は、継続的な居住権――ロンドン市は、都市政策上、その居住権の保証を所有権に優先させるている――を盾に、この邸宅の2階にずっと居座るつもりなのでしょう。
そして、他方に彼女のレッスンを必要なもの、不可欠なものと理解し、受け入れるプロたちがいる。彼らはユーリーナの異議申し立て――居住権を盾にとってディヴェロッパー資本に対抗しようとする姿勢――を支援するかもしれません。映画の制作陣の立場は、そうなのでしょう。この映画の背景描写によって、ささやかな文化的な抵抗を示そうとしているのかもしれません。
とはいえ、この街区では、もはやほとんどの住宅が非居住の不動産業者の手に渡っています。旧い家並みは取り壊され、やがて瀟洒なフラットやコンドミニアムに置き換えられていくことになるのでしょう。
その容赦のない時代の歩みは、ラストシーンに描かれています。
ラストシーンでは、窓から通りを見下ろすスザーツカから、カメラは素早く遠ざかっていきます。スザーツカの姿を映す窓はどんどん小さくなり、やがて旧エミリー宅の全体が収まる画面になります。
さらにカメラは遠ざかり、その邸宅の周囲の家並み、ついには街区全体が一望できるようなアングルになります。
すると、ほとんどすべての家に「売り家」の看板がかかり、新築の家屋の多くには「売約済み」が掲示されている光景が見えるのです。
いやさらに、古い住宅は取り壊されて更地になったのち、ディヴェロッパーによって建物が次々と新築されているシーンさえも見えます。まさに、再開発ブームの真っ只中。
そのブームの嵐のなかに、スザーツカのいる小さな窓があります。