で、最後のとどめがサッチャー政権の政策でした。
階級格差のひどい不均衡な社会の安定性をそれでも何とか求めようとする従来からの政策を切り捨てて、投資や投機の利益に対する課税を甘くし、民間主導の産業基盤開発や都市再開発を進めたのです。
ロンドンの旧中心街での住環境の荒廃や治安の悪化がまず進み、ディヴェロッパー資本がその地区の不動産を買い叩きやすいような環境をつくり出しました。
不動産が転売され、最新のビルに建て替えられ、都心部に企業家や富裕層を呼び込む。それで得た利潤への課税率は低く抑える…というものです。
都市の再開発に資本を呼び込むために、じつに巧妙な仕組みです。
そして、国内の製造業は弱くて遅れた状態に放置されていました。失業率も高いまま。ゆえに、賃金がかなり低く、産業立地も安価で済むというわけです。
ヨーロッパの内部で、しかも比較的教育水準や労働力の質が高いにもかかわらず、いってみれば途上国に近いような条件で安い労働力が手に入る。しかも、投資への税制上の優遇措置は申し分ない…ということです。
というわけで、ヨーロッパ大陸や、とくにアメリカと日本などの製造業の世界企業が、活発な直接投資に乗り出しました。なにしろ、ECの関税同盟としての恩典が受けられるうえに、大陸並みの労働者保護制度がないし、企業への課税も大陸よりも緩い…というわけです。
こういう形の経済開発は、「先進国型」というよりも「開発途上国型」というべきもので、EC・EUの辺境諸国、エスパーニャやポルトゥガル、ブルガリアなどで見られるパターンです。
金融権力では世界経済のトップにある国民国家が、その工業において途上国に近い構造をもつという奇妙な個性をもっているのです。
さて、ここで映画の制作陣の話に戻ることにしましょう。
サッチャリズムは、結局のところ、強いものをより強くして、切り捨てられた弱者を、安価な労働力として雇用し、彼らの所得を増やすように、シティと海外からの投を誘導するというものでした。
映画の制作陣は、このような状況を感覚的に読み取っていたのでしょう。
ただし、こぶしを上げて「抗議」や「団結」を訴えるというような手法には訴えなませんでした。いや、訴えるような条件はなかったというべきでしょうか。
荒廃していくダウンタウンに資本が回帰することそれ自体は、このまま荒廃が進むよりはずっとましだと考えたからでしょうか。
そして、資金の幾分かは、雇用された労働者たちの賃金にも回されるでしょうから。
その代わりに、この洗練された映画の背景描写にさり気なく、とはいえ「これ見よがし」都市風景の変貌をに描き込んだのです。
「進歩」のなかで失われゆく大事なものもあるのだ、と。失われゆく時代の流れは、もはや誰にも止められないのだ、と。
私は、勝手に、そう考えました。
してみると、自らの国の状況をここまで突き放して冷徹に描く、批判するという点では、ブリテンはやはり知的・文化的には the top of the top の地位にあるともいえるのです。