補章-1 ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
この章の目次
大がかりな農具、一続きに整序された広大で肥沃な耕地、多数の農耕用家畜、共同耕作の管理システムが、こうした技術革新に対応するための条件だが、そのためには比較的大規模な資源の投下が必要になる。つまり、背景には農村および所領の経営様式の変化があった。
三圃制農法をとる集住村落形態は、7世紀後半~8世紀末にかけてライン河とセーヌ河に挟まれた地域でまず出現したという。それは、その後13世紀にかけて、ライン河東岸一帯とエルベ河流域、またドーナウ河以北の一帯へ、さらにイングランド南東部とユートラント(ユーラン)半島のつけ根の地域へと広がった。だが、南に向かっては、せいぜいロワール河流域およびローヌ河上流地域までであった。
この当時の農業の主な目的は、麦類などの主殻生産であり、比較的安定した穀物食料の供給ができるようになったことが、農村人口を増大させ、安定した食料備蓄と供給を条件とする入植開墾や都市の発達を可能した。村落と耕地が森林にとって代わっていく。
これらの地域では、三圃制農法に照応する集住村落形態を基盤とした所領(荘園)支配の体制がつくられた。私たちが「北西ヨーロッパ」と呼んでいる地域に見られた農村形態の1つである。
これは、修道院などが領主として耕地の開拓と農作の開発を指導しながら村落と所領をつくりだしていった場合であって、むしろ農民たちによる自発的な開拓がおこなわれた場合には、異なる力関係と秩序が形成されたものと見られる。
11~13世紀の集住村落は20~30戸を規模の上限としていて、村落の中心に教会や集会場などの核がある構造だった。村落の規模がこの上限を超えるようになると、近隣の森林や慌蕪地を開墾して、同じような村落をつくる。もとの村落と新村落とは相互の依存関係ができ、中間の開墾地帯が共同の入会地 Mark となった。
こうした地方では、有輪犁――数頭の牛や馬に車輪がある大型・重量の犁を引かせて深く耕す――による耕作が行われた。こうした農機具は個別世帯で保有することはできないため、何世帯かによる共同保有・共同耕作となる。ただし、作業の共同化は、せいぜい数家族が上限だったと思われる。
土壌に深く食い込んだ重い有輪犂を数頭の家畜で引っ張って耕す作業では、回転や反転が大変に面倒なので、往復が少なくても耕作面積を大きくするために、耕地は幅が狭く奥行きが非常に大きい――細長い――形状になった。これを地条 Flur と呼ぶ。
そして、農作物の栽培には、耕作や種まき、施肥、雑草取り、収穫など、作物ごとに季節的なリズムがあるので、適切な時季に労働力の集中的投入が必要になる。それはまた、集団のある程度の組織化や指揮を必要とする。つまり、農民生活は集団化され、農地経営は共同体的規制の強いものになっていった。
季節とともに順繰りに農耕作業が移っていく、この村落全体におよぶリズムが慣習やしきたりを生み出していく。こうした季節のリズムに合わせた土着の行事は教会の活動に取り込まれていき、宗教的な祝祭や行事になるとともに、精神生活にも集団的規制がおよんでいく。宗教施設と聖職者の増大とその組織の拡充が、こうした宗教生活の組織化を支えたであろう。
このような農村が再生産されるためには、村落ごとに有輪犂を修理加工する鍛冶屋や車大工、家畜小屋を建てる大工などの職人の定住が必要だった。比較的に規模の大きい村落には、農民のほかに鍛冶屋、車大工、大工などが住み着いた。村落内で分業が進み、専門の職場や生産場所が設置されることになった。
こうした手工業設備の設置・所有・管理を手がけたのが聖俗両界の領主たちだった。彼らは、そのほかに風車や水車を動力装置とする製粉小屋、パン焼き釜をつくり、農民にその使用を強制して使用料を徴収した。風車や水車の動力は、醸造や製油、冶金、繊維縮絨などの手工業にも応用された。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成