貿易海運事業におけるリスクとコストを分散化するため――商人仲間の内部でのコストの社会化――の方式は、船荷証券の先物取引だけに限らない。当時、貿易業者と密接につながっていたシティの金融商人の手元への莫大な貨幣の蓄積を土台にして、船舶貿易海運の保険というものが生まれた。
貿易航海のリスクの確率に応じて相応の掛け金を受け取って保険を引き受け、事故や遭難によって損害が生じた場合に損害金額を補償する業務をおこなう一団の専門業者が現れた。
彼らはこれまでの経験則から航路別、船舶別の危険率(リスク度合い)を割り出し、それぞれの航海事業ごとに算定された保険料率をかけて、貿易海運事業者たちから保険料を受け取り、損害補償を引き受けるようになった。海事保険業の成立である。もちろん、成功すれば世界貿易が巨万の富をもたらすゆえに成立した制度だった。
言うまでもなく、リスクの引き受けは、巨額の資産を保有し動かすことができる者だけができる。
ロイドのカフェは、やがて、このような海事保険業者のたまり場になっていった。
ロイドの店には、通常の船便情報よりも正確で詳細なうえに、それに加えて、世界の海洋の気象情報やブリテン艦隊の動きを含む軍事情報、各地の政治情報・戦争情報などがいち早く集まったはずである。
シティのトップクラスの資産家サークルのたまり場である。王室や政権とも家系的・人脈的につながり、特権サークルだけに許容される情報が流れ、集まり、交換されたに違いない。つまりは、ロイドのカフェは、エリート中のエリートが結集する権力装置の一端をなしていたわけだ。
そうなると、ロイドのカフェはエリート専門のクラブのようなものになり、金はあるが素性の知れない荒くれ者は入れないようになっていく。外に対して閉じられたエリートサークルになっていく。
まもなく海事保険は、飛び抜けて利潤率が高いアフリカとアメリカ大陸との奴隷貿易にとりわけて集中することになった。というのも、リスクが高いけれども、成功報酬が恐ろしく高いことから、ときには大きなリスクを負い、手痛いコストを払っても、1回成功すれば巨額の利益が転がり込むので、高い保険料率でも保険者もアンダーライターも互いにともに十分に利益が確保できたからだった。
こうした海事保険をめぐって、莫大な資金のやり取りがおこなわれた。つまり、世界貿易における利潤と資本の集中・集積を加速したわけだ。
海事保険という制度によって、シティの貿易業者や金融商人たちが中心となって、世界貿易による大がかりな利潤の再分配と集積が組織され続けたのだ。
それというのも、ブリテンの海洋権力はヨーロッパのどこの国家よりも強大で、およそ安全な外洋航路のほとんどに最強の艦隊を派遣して、ヨーロッパの大半の諸国家の商人たちにブリテン商人またはブリテン船舶による奴隷貿易を強要できたからだ。いわゆる航海諸法 navigation acts レジームである。
ブリテン商人と王権は、アフリカ大陸において、ほかのどの国家・国民よりも大規模かつ苛烈に奴隷狩りや奴隷貿易を組織化した。
映画『アミスタッド』においては、1830年代、ブリテン王権は奴隷貿易を禁圧し、取締りのためにブリテン艦隊を大西洋の各海域に派遣していたことが描かれている。ポルトゥガルやエスパーニャの奴隷密貿易業者を追跡、摘発、撃破し、保護したアフリカ人たちを「解放」していた。
ところが、そのほんの少し前までは、ブリテンは世界最大、最悪の奴隷貿易の組織者だったのだ。アフリカから新大陸に送られた何千万人ものアフリカ原住民の大半をブリテン船団・艦隊が運んだのだ。17世紀から19世紀までに、ブリテン籍艦船がアフリカから新大陸に運搬したアフリカ人奴隷の数は、少なく見積もっても3000万人を下らないという。
これによって、シティの商業資本・金融資本が蓄積した資本がパクスブリタニカを財政的・金融的に支えていたのだ。ロイズはその中核的部分の一端を担っていた。
■奴隷貿易の廃止・禁圧後■
18世紀末からブリテン国内と植民地帝国では、人道的理由と経済的理由によって奴隷廃止運動が進展する。1807年には奴隷貿易法によって、ブリテン帝国(帝国を構成する地域間)における奴隷貿易が禁止された。33年には、奴隷廃止法によって、奴隷制度そのものが公式上は廃絶された。
この動きにともなって、ロイズ・メンバーによる保険事業の主要分野が転換していくことになった。