州ごと、地方ごと、階級ごと、集団ごとに格差が大きく意見が対立するアメリカ社会では、とことん利害をぶつけ合い闘争する仕組みがいたるところにできあがっている。日本のように中央官庁の有権的通達や解釈がまかり通るということはまったくない。要するに意見表明と論争に対してオープンな社会なのだ。
ともあれ、合州国は移民はもとより、さまざまな運動や闘争に対して「開かれた社会」です。
運動や闘争というのは、それが民主主義や社会正義をめざすものであれ、極端な拝金主義であれ、マフィアのように暴力と犯罪をめざすものであれ、とにかく開かれています。
ということは、行動しない者、闘わない者は、とことんワリを食う社会だということです。
つまり、自分の目的や相互の対立点(違い:diversity)を明確にして、優位を手に入れるために行動する、闘う。そのための手立てが十全に用意されている、用意されていなければ新たにつくりだす社会です。
ゆえに、「訴訟社会」と呼ばれもします。
アメリカでは、法や権利は「そこにあるもの」「与えられたもの」ではなく、運動または闘争によって獲得するものです。
この点が、すべてを法律で一元的に定めて、細目を中央官庁=「お上」が決めて、法制度の網を「上から」おっかぶせるという、日本人とりわけ官僚や政治家が好み、一般庶民が漫然と順応している考えと決定的に異なる点です。
ですから、アメリカを筆頭とするアングロ・アメリカン法体系の諸国では、議会でどんなに精査し、検討して法を制定しようとも、それはまだ立法の序の口、法の未熟状態でしかありません。
その後、訴訟や法廷闘争、つまり市民や団体、企業の活動をつうじて権利や義務の内容や限界、具体的な運用方法が決められていくのです。
考え方がきわめて「動的」なのです。おおかたの日本人のように「静的」ではありません。
社会状況は絶えず変化する、ゆえにこの変化に合わせて法制度をつねに新たなものにつくり変えていかねばならない。一度決めた法律の文言は、そのままにしておけば、立法後に動いていく社会状況に対してどんどん古びて無効になっていく。
こういう《常識》が基本になっているのです。
ゆえに、弁護士などの法曹関係者がたくさんいて、高収入を得ているわけです。
日本では、たとえば水俣病などの被害者に対して、過去に一度決めた法律の文言にないからということで、訴訟を門前払いしたり、救済の権利を否認する政府官僚=官庁は、どんなに親米的だと口では言っても、アメリカの精神がきらいなのです。
しかし、それゆにこそ、アメリカでは戦う手段と力をもてない人びとは無力です。そして、皮肉なことに、手段と力が持てない州や地方ほど、不平等や格差を縮減しようとする連邦国家の介入や社会政策に反対する意見の人びとが多数派を占めておるのです。そういう地方ほど共和党を支持する傾向が強いのです。
中央官庁=官僚組織の権力が強すぎて日本は立ち行かない」と政治的意見を主張する人びとは、この側面をどうやって変革していくかを示さないと、何の効果もないでしょう。そして、たとえば「維新の会」が大阪地方の政治組織としての強さや自立性を高めようとすると、結局、国会議員を多数送り出し、中央政権との関係を強めるしかない、というディレンマに陥るわけです。
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