さらに、エスパーニャ王室は婚姻をつうじてオーストリア公国のハプスブルク家と結びついて、16世紀には、イベリア半島、ネーデルラント、ブルゴーニュ、オーストリア、地中海と、フランスを取り囲む諸地域を、名目上、統治することになりました。
同じ頃、パリの王権も、ローヌ河以西のフランス諸地方に権力を拡大し、急速に膨張したエスパーニャ王権と勢力争いを繰り広げていました。そして、北イタリアのミラノ、さらにはナポリをねらって度々王軍を派遣しました。
こうして、両王権は北イタリアを舞台にヨーロッパ全域を視野に入れた覇権闘争を始めることになりました。
北イタリアの小さな都市国家にとって、この2つの巨人は桁違いの力量をもっていて、とても太刀打ちできません。
いきおい、徒党を組んだり出し抜きあいをしながら、有利な庇護者(身売り先)を求めることになります。
かつての覇雄ヴェネツィアも、海洋帝国のあちこちの拠点を相次いで失い、その貿易覇権を失いつつって、むしろ内陸に領土を求めるようになりました。
16世紀からヴェネツィアが内陸部に支配地を拡大するのは、権力の拡大ではなく、通商覇権を失いつつあることの裏返しです。
こうして、ときにはある諸都市やその同盟がフランスについたり、逆にエスパーニャについたり、と無節操な動きが展開します。とはいえ、個々の都市にとっては自分の生き残りがかかった深刻な綱渡りや駆け引き、出し抜きあいなのですが。
この当時のフランスやエスパーニャの王権国家は、行財政=官僚装置や法制度、政治制度もろもろを完備した現代国家と比べれば、まるで「糸くずの集まり」か「綿くず」のようなものでした。
でも、「綿くず未満」どうしが争っているわけですから、まともな綿くずなら十分強力だったのです。
一方、イタリア南部はといえば、ナポリ王国・シチリア王国という名目の残骸は残っていますが、この時代には総じてエスパーニャ王権が君臨し、ときどきフランス王権が攻め込んだり、占領するといった状況でした。
とはいえ、この地域では王権とは名ばかりで、土着領主やエスパーニャ王の家臣の領主たちが分立割拠して、それぞれの独自の軍事力=私兵団を好き勝手に動かして農民を抑圧し収奪しまくっていました。
そして、経済的には、所領の経営や農産物の取引きにおいて北イタリアの商人の権力に従属し、蹂躙されていました。
ゆえに地場の商工業は発展しませんでした。外部の商人の権力を中継・媒介する商業組織が有意な取引きの大半を支配していました。
この事情は、基本的に20世紀初頭まで続きます。
やがて17世紀半ば以降になると、エスパーニャ王室が没落し、18世紀はじめになると、その勢力圏をフランス王権が飲みこもうとします。
ところが、オーストリア王権を筆頭にヨーロッパの多くの王権や君侯が、フランスの覇権獲得をじゃまするようになります。「勢力均衡」の思想を振りかざして、「強すぎる王権」の出現をとにかく妨害することになります。
こうして、いまや北イタリアは、フランス王権とオ−ストリア王権との角逐、勢力争いの舞台になってしまいます。
18世紀末にはフランス革命の影響がおよびます。
その後、ナポレオンのヨーロッパ征服戦争では、イタリアはこっぴどく支配・収奪されます。19世紀、ナポレオン没落後は、オーストリアの属領になってしまいました。
というわけで、イタリアは長らく政治的・軍事的には分裂し、つねに列強の国際的対抗のあおりを食らっていました。
19世紀なると、各地にイタリア統一をめざすあれこれの社会運動が起きますが、大きく成長する前につぶされたり、諸都市や諸公国の互いの足の引っ張り合いで挫折していきました。
1930年代にはカルボナリ党や青年イタリア党の革命運動が起きますが、抑圧・鎮圧され、首謀者たちは亡命します。