彦十の話を聞くうちに平蔵は、にわかに、彦十を人格的に惹きつけ圧倒した市兵衛に、なにやら人間としての強い興味を覚え始めました。
「どんな風貌だ」と彦十に問いかけます。
「はじめて蓮沼のお頭に会ったんですがね、でも、どこかであったような気がするんでさあ…」と彦十。
すると、ますます興味がわいて「どんな顔つきだ。ほれ、ほれ、思い出せ」と彦十を扇子で扇ぎながら、せかす平蔵。顔は好奇心に輝いています。
この、役職を超えた、人間個人としての好奇心や心情を、品良くさらけ出す平蔵――吉右衛門の存在感と演技による――、その姿、振る舞いが、私たちの深い共感を呼び起こします。
やっと思い出した彦十。
「ああ、あれは、浅草新鳥越の海禅寺裏のお地蔵さんだ!」(この寺は、江戸切絵地図にはない。おそらくテレヴィの演出上の創作か)
少し拍子抜けした平蔵「地蔵だと!? だがお前、お地蔵さんなんて、どれも似たような顔じゃあねえか」
べらんめえの江戸弁で平蔵が問い返します。
「いや、あの顔は海禅寺裏の地蔵に限るね!」と彦十は断言。
そのときから、平蔵は市兵衛にいよいよ会ってみたくなりました。そわそわと落ち着きません。そんな興味と願望が顔に出たのか、内心を妻の久栄に読まれ、「合いたいのは、どこぞの女子衆ですか」と妬かれてしまいました。
ついにいても立ってもいられなくなった平蔵は、いつもの微行探索の姿、浪人の格好で見回りに出かけました。
五鉄近くの見張り所の近辺を通り過ぎて、結局、新鳥越の海禅寺裏の田んぼ道までやって来てみました。そこに佇み、地蔵の顔を見つめたのです。
目鼻立ちの整った地蔵でした。中村又五郎に似せてつくったのでしょうか? お地蔵さまは市兵衛に似ているようです。
それからしばらくして。
昼餉にしようと、平蔵はさる小料理屋に入ろうとします。
ところが、そのとき店の前で、どこかの家中の江戸勤番の侍が3人、1人の町人に言いがかりをつけて威嚇していました。そのうち、勢いあまった侍の1人が平蔵に当たりそうになり、自分の刀の鞘を平蔵の刀の鞘にぶち当てました。
あるいは、争いを鎮めようとした平蔵が、うまく身体をかわして、鞘が当たるようにしたのかもしれません。
こんどは平蔵が、町人に迫る侍たちに言いがかりをつけて、謝ってこの場を去るよう命じました。武士たちは逆上して平蔵に斬りかかりました。
が、平蔵は素早く動き、扇子だけで相手の顔や胸を突き上げて撃退してしまいました。
さて、その騒ぎののち、平蔵は店内に入り、酒と簡単な肴を注文しました。だが、配膳係は、酒と簡単な肴のほかに「鯵の水なます」をもってきたのです。
平蔵がいぶかしがり、「そんなものは頼んでないが…」と尋ねると、店員は奥の方を見やり、あちらの客から頼まれたと答えました。
平蔵が奥の座敷を見ると、70歳くらいの品の良い老町人が会釈し、「さきほどは、お見事なおはたらきでございました。これは、そのお礼としてお召し上がりください」と語りかけてきました。
ドラマ「鬼平犯科帳」の見ものの1つは、池波さんが上手に書き込んだ江戸の食物、料理の妙を巧みに映像に再現してみせるところです。
ここでも、「鯵の水なます」の解説を入れています。味噌を水に溶き、たれをつくり、そこに鯵の刺身を盛り合わせる、とか。ああ、食べてみたい…!
さて、両人は初対面なのですが、互いに惹かれるものがあったと見え、しばらく言葉を交わしました。が、どちらも名乗らず、店を後にしました。平蔵は老人の後から店を出て、この不思議な雰囲気を漂わせた男の後姿を見送りました。
そのときは平蔵は知らなかったのですが、その老人こそ、蓮沼の市兵衛だったのです。
物語の劇性の設定の仕方、池波さんはうまいですねえ。