補章―3 ヨーロッパの地政学的構造
――中世から近代初期
この章の目次
さて、イスラム勢力はイベリアでは支配地を失ったけれども、地中海の対岸、北アフリカからエジプト、レヴァントにかけての地理的範囲はイスラム諸王朝が支配していた。とくにオスマン帝国の勃興でイスラム勢力は14世紀にはアナトリアを征圧し、次の世紀には、イスラムの勢力圏は膨張してバルカン半島とドーナウ河の中流域にまでおよぶようになった。16世にはオスマン帝国の支配は、ワラキア、ハンガリー、トランシルヴァニア、モルダヴィアにまで拡大した。地中海の東部にもトルコの勢力は浸透していった。
ところで、時代をさかのぼると、バルカンからドーナウ以南、そして黒海西岸、アナトリアにおよぶ地方は、古くからビザンツ帝国の版図をなしていた。しかし10世紀になると、中東地域や北アフリカ、レヴァント方面、さらには地中海全域でイスラム諸王朝の勢力が拡大し、ビザンティウムは圧迫されることになった。
おりしもその頃、イスラムとビザンティウム双方の中間地帯=辺境にノルマンディ出身の部族(傭兵騎士たち)が割り込んできた。
ノルマン諸族は9世紀以降、ヨーロッパの海岸線に沿ってあらゆる沿岸部に襲撃をしかけ、あるいは交易や植民をおこなった。彼らは、北西ヨーロッパはもとよりガリア西部からイベリア半島に進み、さらに地中海に入り込んだ。また、東ヨーロッパの内陸部を通過して地中海に達した一群もあった。
とくにノルマンディ出身の騎士集団は、地中海各地で傭兵として活躍し、11世紀には南イタリアとシチリアに王権を樹立し、さらにアドリア海やエーゲ海に進出し、バルカン半島にも勢力を伸ばしてビザンティウムにも攻撃をしかけるようになった。ビザンツ皇帝はノルマン人の侵攻から帝国を防衛するために、ヴェネツィアの艦隊と補給能力に全面的に依存するようになった。
他方、十字軍遠征とともに、ジェーノヴァやヴェネツィアの商人たちは地中海東部とレヴァント方面に足場を固め、黒海沿岸にも植民地や軍事的・商業的拠点を築いた。そして、12世紀には、ビザンツ帝国の各地に北イタリアの商業勢力が進入し、帝国の政治経済への侵食を始めていた。ノルマン騎士団がつくったシチリア=ナーポリ王国にも北イタリア商業資本が食い込んで、領主や農民を経済的に支配するようになった。イタリア諸都市の艦隊は、イスラム勢力が開拓した地中海航路を受け継ぐことになった。こうして、13世紀には北イタリア諸都市を中核として地中海貿易圏が形成された。
ところが、15世紀以降、トルコの勃興とともに黒海方面やバルカン半島内陸部、地中海東部では北イタリア商人勢力は後退することになった。こうして、17世紀にはハンガリーの北西部とバルカン半島のアドリア海沿岸のダルマティア地方だけがヨーロッパ文明の政治的・軍事的勢力圏に残されていた。これらの地方が、当時のヨーロッパの南東の境界域をなしていた。
さて、こうして地中海東部ではオスマン帝国による圧迫を受けるようになったので、北イタリアの都市商業資本は、すでに地中海貿易で蓄えた富と権力を土台にして、その活動舞台=勢力圏をネーデルラントやライン地方、イングランド、北フランス、イベリア半島方面に移動・拡大していくことになった。これらのヨーロッパ北部・西部の諸地域は、北海・バルト海の貿易をつうじて古くからゆるやかに結びつけられていたが、さらに密接に融合しつつあった。そして、イタリア商業資本の関与の強まりとともに、地中海=南ヨーロッパとも濃密に融合し始めた。
そのさい、14世紀後半から始まる疫病流行や人口危機が、このような変動に独特の側圧をかけていたように見える。
では、ヨーロッパ文明の東部から北東部の辺境地帯はどうだったのか。
テュートン(ドイツ)人たちが東欧に植民を始めようとしたのは11世紀頃だった。とりわけ11世紀にラインラントやザクセン地方で勃興した有力領主や諸都市の商人たちは、まもなく東方と北方に向けて植民・交易経路の開拓に挑戦して、バルト海沿いにプロイセンやポンメルン、ポーランド、リトゥアニア地方に通商路と都市集落を建設しようとしていた。都市と通商路の建設に並行して、農民たちの東部への移民と開拓運動が進んだ。こうして、13世紀までに、バルト海沿岸には多くの都市集落や所領が建設されていった。ヨーロッパ西部(ネーデルラントやラインラント)からこれらの都市を結んで開拓された通商路は、バルト海東端の都市リーガを経てロシアに結びついた。
この商業経路を基盤として、ハンザの商人たちと諸都市が興隆していった。その交易路の西の極はフランデルンの諸都市で、それらはフランス北部ならびに西部、イングランド南部、さらにイベリア北部と交易関係をつうじて強く結びついていた。そして、バルト海一帯、すなわちスカンディナヴィア西部・南部とポーランド、クーアラントがこの貿易圏にとらえられるようになった。
このヨーロッパ北部の通商ネットワークは、西方の極のネーデルラント・フランデルン地方でひとまず収束し、そこから内陸に向かい南ドイツや中欧を通って、あるいはフランスを縦断して、また大西洋沿岸伝いにイベリア半島を回航して、北イタリア諸都市にも結びついていた。
さらに、ヴェネツィアからラインラントあるいはバイエルンを経て北東に向かう通商路は、ベーメンやシュレージエンを経てポーランドやバルト海にまで伸びていった。東に向けては、ドーナウ河沿いにヴィーンを経てウクイライナや黒海方面への通商路も開拓され、ハンガリー方面にもヨーロッパ貿易圏が拡大しようとしていた。だが、この動きはオスマン帝国の膨張で一時的に食い止められることになった。
こうして、世界経済と諸国家体系が出現する16~17世紀のヨーロッパ(文明空間としてのヨーロッパ)の東限を縁取るのは、南からダルマティア、クロアティア、オーストリア東部へと北上し、次いで内陸部ではハンガリー北西部、ベーメン、シュレージエンを経てポーランドからバルト海沿いにプロイセン、クーアラントにいたる帯状の地帯ということになるだろう。
ここでは、このような地理的空間の内部において、ヨーロッパ世界市場の形成という文脈を背景に置きながら国家形成をめぐる状況、つまり政治的・軍事的環境について一瞥しよう。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第1節
ブリュージュの勃興と戦乱
第2節
アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第4章
イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望